ブレイクスルー4 -22-

 ソファに座ってコーヒーを飲んでテレビを見ていると、シャワーの音が響いてくる。
 昨夜は殆ど意識ないけど反応はある状態の原田をどうにかタクシーに押し込み、家まで連れ帰り、どうにかベッドまで辿り着かせ、そのまま寝させた。それだけで、酔ってないとはいえ多少はだるいおれも疲れ切り、横に倒れ込み、そのまま、服のまま寝てしまった。原田はその点は助かったが、その後吐きもせず、夜中にもしかして喉が乾いて起きたかも知れないけど、朝まで大人しく寝てた。
 割に早く風呂場のドアの開く音がし、髪から滴を落としながらバスタオル一枚でこっちへ寄ってくる。
 そのまま横に座ると、
「赤……」
と顔を寄せ、まだ湿り気のある手のひらでおれの頭を掴まえ、唇を塞ぐ。頬や額に当たる彼の濡れた髪から、滴が伝ってきてひんやりと背筋を竦ませる。
 気持ちいいから、つい易々と深い口付けを許し、張りのある素肌で抱き寄せられるまま、任せていた。だけど、一旦口を離したとき、濡れたおれの唇を舐め取ろうと再び寄ってきた唇を遮り、精悍な艶を持つ胸を押した。その時中指が突起に触れ、ドキッとする。
 この身体を、野々垣さんは、犯したいと思ってる。なんて……さっきタオル一枚で寄ってきた時から、脳裏にフラッシュバックするその言葉。
「何。そんな顔して…おれ、そんなヤバイことやった?」
 のんびりした口調が、本気で忘れてる証拠を思わせる。野々垣さんの言った、『こないだも言うたけど』のこないだって、いつのことだ?おれは知らない。おれが知らないところだったら、昨日会社でトイレに行っていた間か、焼鳥屋でトイレに行っていた間か……アノ夜しかないだろう。でも、昨日のことを昨日『こないだ』とは言わないはずだ。こんな調子の原田が、あの夜大丈夫だったのか、本気で疑わしくなってきたけど、野々垣さんの様子からしても、ヤッてしまってはいないと思う……思いたい。
「マジで覚えてへんの?どの辺から覚えてへんの?」
「どの辺て言うても……んー…」
 そう言いながら、抱き寄せられる。
「……そういや、ビデオの交換出来たん?多分2軒目で出すんかなぁ、話で盛り上がるんちゃうかなあ、て思とってんけど、」
「あー……」
 原田は間の抜けた声を出し、暫し沈黙の後…一生懸命脳はフル回転で思い出していたんだと思うけど、
「焼鳥屋で、お前と高階がトイレに立ったときに交換した、わ…うん、簡単に内容の話しして、2軒目で気兼ねなく盛り上がろうて思とってんけどな、……」
と、途切れる。そして強く、きつく抱き締められた。
「お前……高階に触らせて大人しくしてんなや」
「だって……恥ずかしいやん、あんな普通の、会社の近くの居酒屋で、そんな……」
「お前は痴漢に抵抗出来へんタイプやな。まぁ、……でなかったら、こうしてない気もせんでもないけど……」
 ああ、あの頃……。達っちゃんのことが好きでも、イマイチ貞操観念の弱かった、というか自分を大事にしてなかったというか、イヤやっぱり相手を大事に思う気持ちが弱かった、イヤイヤ原田には惹かれるものがあったからに違いない…だんだん自分を正当化していってるな。とにかくあの頃と今のおれは、自分では大分違うと思うんですけど。原田にとっては十年一日の如く変化は感じられないのかも知れない。
「折角思い切り話そうて思とったのに、出来へんかったんは心残りやわー…なんでやろ」
「なんでじゃないわ…お前こそ痴漢やったわ。トイレでのこと、覚えてへん?」
「トイレ……?」
とまた黙り込む。そして、テーブルに手を伸ばし、おれの飲みかけのコーヒーを喉を鳴らして飲む。
「ああ……おれ、お前にションベンさせたったような……」
 その声には笑いを含んでいる。こっちは死ぬほど恥ずかしかったってのに、カッと身体が熱くなる。
「その後は……?席に戻って、横に並んで……」
「んー……」
 どうもあの辺からかなり覚えてないようで、朝の慌ただしい時間なので尋問は切り上げた。原田はハダカのまま座っていたので、着替えに立ったときくしゃみをした。

「おはようございます」
 会社に着くと、美奈ちゃんの淹れるコーヒーの香りが漂う中、もうデスクに着いてノートパソコンをいじっている高階クンがにこやかに挨拶する。にこやか、おだやか。彼は何一つ忘れてはいない。でもそんなことはおくびにも出さず、静かに仕事をしている。
「原田さん昨夜は大丈夫でしたか?……あ、ごちそうさまでした」
「え?飲みにでも行きはったんですか?」
 美奈ちゃんがコーヒーを配りながら言う。
「うん。急に」
「ええなぁ……私も5時上がりやめて定時まで居るようにしようかな?」
 そういう美奈ちゃんに、高階クンは笑いかけ、
「美奈ちゃんは、行きたいときはおれに言うてや。2人やとアレやろから、お互い友達呼んで、」
 美奈ちゃんは眉をしかめ、
「高階さんは、友達狙いでしょ」
「美奈ちゃんには手ェ出したらあかんことになってるからね」
「あのねぇ……彼女さん、泣きますよ?」
「ナイショにしてたら、分からへん」
 そういう会話を聞きながら…高階クンと彼女って、上手くいってんのかなとギモンが湧く。
「高階クン、彼女、大事にしーや…」
 おれがそう言うと、原田も呆れたように
「ほんまやで。下らんことしてへんと、……最悪クビを覚悟しとけよ」
 あ、そういうこともアリなんだな。おれたちの立場って。
 高階クンは、口だけで渋い笑を作った。

 なんだか今日は事務所に妙な雰囲気が漂ってて、神経疲れというか、肩が凝る。
 土井さん達との仕事の初校を納めたあと、前に土井さんも見たいと言っていたので、そのまま一部届けに行く。
 普通ならこっちに来て貰うのだけど。ちょっと息抜きしたかったのかも知れない。事務所から電話して、『伺います』という彼を制して、『いえ、今日は比較的ヒマなんで』と言ってしまった。
 よく考えたら、彼のとこが息抜きになるのか疑わしい。けど、いつも来て貰うのも悪いし。彼の仕事場にも非常に興味あるし。実は行くのは今日が初めてなのだ。
 名刺の住所を頼りに入居しているビルの前に着くと、おれは見上げた。高層で、きれいな植え込みのあるガラス張りのゆったりしたエントランスを持つ、高級そうなマンション。
 その一階のオフィスや商店の入るスペースに、彼のオフィスがあった。
 ノックして入ると、
「いらっしゃい」
と穏やかな笑みで土井さんが寄ってくる。広い、白っぽいスタジオ。高い天井から続くサッシ窓から大きく自然光を取り入れて撮影も出来るし、光をシャットアウトして撮影も出来るような造りになっている。
「今日は、撮影ではなかったんですか?」
 その明るく片づいた様を見ながら言えば、土井さんは応接セットに促し、隅のデスクの上のパソコンを指し、
「今日はフィルムや画像の整理…いや、撮影が見たいんなら、撮りますけど?」
「何を?まさかおれじゃないですよね?」
 笑って言えば、彼も笑う。応接セットに座ろうと目を落とすと、テーブルに何枚かカラー出力の紙が置いてあった。
「ああ。それはこないだのモニタ原稿のゲラ。丁度いいから赤城さんにも見て貰おうと思って」
「……おれの写真、使ってないですよね?」
「約束は守る男なんでね」
 そう彼の背中が言い、奥へ消え、きれいなグラスに入った麦茶とお菓子を手に戻ってくる。奥は、居住空間になっているようだった。
 深く沈み込む質の良さそうなソファに腰を落とし、目の前に置かれるお茶に軽く頭を下げた。
「ここ、住んでるんですね…風呂とかは…?」
「ああ…喫茶店とか向きに元々トイレと台所は付いてたんでね。現像室とか、その他の改造ついでに、簡易でシャワー付けて貰いましたよ」
「へー……」
 なんか、ちょっと土井さんはおれたちと違う、てかカッコイイというか。この広くてきれいな、余り生活感のない空間に1人で住んでるんだな…なんか実感がなかったり。
「月に半分はあっちですから、ホントの家はあっちにありますからね」
「あ。そっか……」
 生活感がないのもムリはない。
 こんな人が、本気でおれみたいなヤツを好きになるはずがない。一晩の気まぐれ…きっとそうだろう。
 土井さんは、向かいでなく、おれの座ってるソファに、でも間に1人分くらい置いて横に座った。

この土井さんエピソードはもそっと後に入れようと思ったのですけど…いやいいです。今回は特に書くことないです…

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