第四回

 さて鳳仙郡への逗留も師弟四人の為に建立した寺院の落成を見、終わりを告げまた彼らの一行は西を目指して旅立った。
 半月に及ぶ安住の暮らしを恋偲ぶ八戒のような者もあったが、皆はようやく旅立てることに心身爽やかに喜ばない者はなかった。
 八戒は無実の罪で悟浄にひどい仕打ちを受けたことを常に忘れず、悟浄を警戒するようになったが、悟浄はやりすぎたのではないかと反省し努めて八戒を思いやるようにしていた。
 しかし八戒は根っからのお調子者、悟浄が行李を持ってやろうかと言えば全部渡してしまったりして、結局唐僧や悟空に怒られたりしていた。
 そしてまた悟浄の策略にかかったのではと疑うことしきり、悟浄も思いやる甲斐のない相手に、苦労するものである。
 さて、ある日、荒野の中で、悟空は八戒に斎を乞いに行かせると、悟浄の方に振り返った。悟浄は馬を連れてわずかな草をはませていた。
「悟浄、悟浄、」
 悟空は呼ばわりながら彼の側へ寄って行った。
「お前最近何八戒のあほうなんかに気を遣ってんだよ。相手が違うだろ」
悟空は悟浄から馬の手綱をひったくり言った。
「おれが誰に気を遣おうがおれの勝手。ほっといてくれないか」
「お前最近いやにおれに楯突くじゃないか。可愛くないぞ。素直になれよ」
「おれは自分に素直だし、可愛くないよ」
 悟浄は馬係を引き下がると、師父の憩うておられる岩陰に行った。
「やっぱり馬の扱いは弼馬温に限るな」
と捨てぜりふを残して。
 悟空は弼馬温と言われるのが何より腹が立つ。生まれてこの方人に使われたことのない、妖王だった悟空が初めて天界に召されて与えられた官がこの弼馬温だった。この弼馬温なるもの、ただ天馬の世話をするという、位 も付けられないくらい低い役職であった上に、未だに腹が立つのは自分の無知故に、何も知らずいそいそと職に励み、あまつさえいい職と信じて疑わず、得意気に位 はどの位だと他人に訊いてしまったことである。
 そういう忘れたい嫌な事を一杯思い出させるこの言葉、気位の高い悟空は弼馬温のひの字を聞くのも嫌だった。
 しかし悪いことに、行く先々の妖怪共はどういう訳かこのことを知ってる者が多く、悟空は何度不愉快な思いをしたか数知れない。
 そして弟弟子二人は、その頃とっくに天界で、今堕ちる前の役職、天河水軍の総督天蓬元帥と玉 帝の側仕え捲簾大将をやっていたのだから間が悪い。向こうは悟空がやることなすこと派手だったせいもあるだろうが、悟空のことを逐一知っているのに比べ、悟空は二人がどんな顔だったのかも知らない。悟浄は折り目正しい高級官吏だったのだろう位 は予測がつくが、八戒はよくあれでそんな職が奉じれたものだと呆れることしきりであった。
 とにかくそんなこんなで、額に青筋をぴくぴくさせながら悟浄の方を伺うと、悟浄は何か三蔵に話しかけていた。その顔は思いやりに満ちた、彼らしい慈愛の表情だった。三蔵は何か眉間に皺を寄せて訴えている。悟浄は悟空がこっちを見ているのに気付くと、微笑を浮かべた。
「何だ。どうしたんだ」
 悟空が問えば、
「八戒の帰る前に水が飲みたいって。やつはきっと食い物しか持ってこないんじゃないかな。水筒の水も飲んじゃったらしい」
「おれが行ってくるよ」
 悟空が側へ寄っていき、悟浄から水筒を受け取る。
「いつも済まない」
「気にするな。おれの方が足が速い」
 悟空は印を結び斛斗雲を呼び出すと、風を起こしいずこともなく飛び去った。やがて先に悟空が水を持って帰って来、八戒も持たせた紫金の鉢に油炒めの菜と風呂敷に饅頭を持って帰ってきた。
 食事のあと悟空は八戒を連れ出し怒鳴った。
「このあほう!お前何悟浄に気を遣わせていい気になってんだよ。おかげで悟浄はちっとも師父に気を回せないじゃないか。兄弟で協力してやるって言ったじゃないか。なのにお前は、ちっとも協力せず逆に悟浄の手を焼かせているってのはどういう訳だ」
 八戒ふてくされたように、
「おれはやつが熱心にほっといてくれ、何もしてくれるなって頼むから何もせんだけだぜ。願いを聞き入れてやってるんだから気を遣うのは当然のことだろ」
「こいつ!」
 悟空は八戒の襟首を掴んだ。八戒は見下し、
「兄貴、あんたは協力するって言うけどな。何をどういう風に、一体何処まで、やるつもりなんだ。世に男同士がない訳じゃないけどな、陰陽の原則から外れて気が滞っている上に、おれたちは沙門の、出家じゃないか。あんたのやってることは、無駄 なことだ。ただの遊びだ。あんたは悟浄の気持ちで遊んでるに過ぎん。…ま、何の経験もないあんたに言っても分からんだろうが」
「……。でも、好きな人とは、一緒に居たいもんだろう?」
「そうとも限らんよ。殊に許されざる恋の場合はな。いっそ離れた方が気が楽なこともある。菩薩は何か、言ってなかったのか?」
「……」
 ――帰す訳にはいきませんよ。
 文殊菩薩は何度そういう意味のことを言ったことだろう。
しかし悟空は頭を振った。菩薩は悟空が、頭を巡らせば助けられると言ったのだ。
 ――おれは、良かれと思うことを、信じて一生懸命やるだけだ。
「もうお前は当てにせん。おれ一人で考えてあいつを助ける」
「あまりおもちゃにするなよ。あいつはおれと違うんだから」
「うるさい」
「悟浄、二人を呼んできなさい。出かけますよ」
「はい」
 三蔵が立ち上がったので、悟浄は命をかしこみ二人を呼びに行った。二人は黙って険悪な雰囲気のまま、立っていた。
 悟浄は二人の側まで行くと、意味ありげな笑みを浮かべ、
「話は終わったかい?」
 二人は表情も変えず、何も言わない。悟浄は目を伏せ、
「出かけるぞ」
その時絹を裂くような三蔵の悲鳴が聞こえたので、はっとして三人は振り返った。三蔵は両手を頬に当て、顔を引きつらせ、
「悟空!」
と呼ぶ。三人は顔を見合わすと、悟空は悟浄に目で行けと合図する。悟浄は舌打ちすると駆け出す。
 側まで行くと三蔵はわぁと叫んで悟浄に飛びつき、首にしがみついた。
「なんです、」
 背を抱き寄せ悟浄が言う。
「蛇が、」
 三蔵の視線を追うと一匹の大きな蛇が鎌首をもたげていた。悟浄はふっと笑うと、
「殺してもかまわないんですか?」
「好きにしてくれ、」
 悟浄は片手で腰から宝杖取り出し刃の部分を突き立て真っ二つにした。
「何だ?」
 二人が後から寄ってくる。悟浄は三蔵の背に腕を回し首からぶら下げたままで、
「蛇がいただけさ」
と答える。
挿絵  三蔵の平均的な、いかにも文人そうな白いふっくらとした身体が、悟浄の骨組みのしっかりとした長身にぶら下がっている図は実に釣り合いが取れていた。
「怖かった、すまぬ」
 三蔵はほっとするとしがみつく手を離した。悟浄も口の端を上げ目を伏せると手を離し、
「いいえ」
「じゃ、発つとしよう」
 三蔵は馬を連れさせ乗った。
 悟浄は悟空と目を合わすとにやにやと笑っている。荷物を持ち上げ肩に担ぐ。
 二人にわだかまりがあることはすぐに見て取れた。
 三蔵が最初に呼んだのは悟空だったからだ。それは、三人の順番からいっても別に不思議はないのであるが、彼は直ぐに悟空を呼んだ。悟浄は黙って目を落とし歩く。胸は掻きむしられる思い。
 ――何で、おれが、こんなことしなきゃならないんだ。おれは、あんたが好きなのに。
 悟浄が溜息を一つつくと、八戒が、
「結構似合いだったぞ」
と何でもなく言う。
「そう」
「余り嬉しそうじゃないな」
 意味深な目を向ける。
「嬉しいもんか……」
「全くさっきは怖い思いをしたな。ここいらにはあんなのもおるのだな」
 三蔵がさも感嘆したように言う。
「あんなに小さいのでわあきゃあ言われても困りますな。たかが蛇でしょう」
 悟空が言う。
「お前たちにはたかがかも知れないが、私は虫一匹殺したことさえないのに、どうしてあんな恐ろしげな蛇をたかがと言えよう」
「いいですよ。そういう仕事はおれたちが一手に引き受けますから、あなた様は思うようにわめいて下さい」
 悟空は後ろを振り返り、
「なっ、悟浄」
 悟浄ははっと面を上げ、
「あっ、うん、……」
「兄貴、おれを飛ばすなよ」
と八戒。
「お前もな」
 その夜一行は村に辿り着きある民家で休むこととなった。
 斎のあと、悟浄は外に出て木に繋いである馬の背にもたれていた。我知らず長い溜息が出る。
「三哥。やっぱり無理なんじゃないのか。…なんかおれ、見てられないよ。痛ましくて」
 見かねて龍馬がしゃべる。
「ううん…。他に道はない。でももう、本当に余計なお節介はやめて貰わねば」
 悟浄は息を吐く。
「おれは本当に強くない。弱すぎるよ」
「そんなもんだよ。…元気出せよ。心を落ち着けて」
「うん。……」
 悟浄は一回龍馬の首を抱いて離した。
「済まないね。いつも。こんなことを知ったばかりに気苦労をかける」
「愚痴は言いに来いよ。出せばすっきりする」
「お前だけが頼りだ」
 馬の背をポンポンと叩くと、悟浄は家の中へ入って行った。
 中に入ると悟空が仁王立ちで立っていた。
「全くお前はふらふらするな」
「……ほっといてくれ」
「ちょっと来い、」
 悟空は腕を掴み引っ張り出す。
 悟空は先程悟浄を探して扉を開けたところで、馬の首を抱きながら切なげになにかしゃべっている姿を見て声が掛けられなかった。多分馬には自分に言えないと言う悩みを打ち明けているのだと思うと、むらむらと面白くない気持ちが沸き上がり、悟浄に当たるようにきつい目を向け、言った。
「全くなんだってそうふらつくんだよ。しっかりしろよ」
「兄貴。言いたいことがある。もう本当にお節介は一切やめにしてくれ」
「何?」
「おれをあんまりみじめな気持ちにさせないでくれ」
「みじめだと?」
「そうさ……情けないよ。師父が兄貴を呼べば、素直に兄貴が行けばいいんだ。もうあんなことはやめにしてくれ」
「……」
「もう何も言わないでくれ。ただ、黙っていてくれ。……その方が、つらくない」
「……」
 二人は目を合わさず、黙りこくった。
「分かったよ。でもきっと、おれは何か術を模索するから」
「あんたには、ムリ」
「何だと?」
 悟空にさっきの疎外感のような、面白くない心地が甦る。悟空が睨むと、悟浄は口元に皮肉な笑みを浮かべ、
「嘘、うそ…。いいよ。今度からおれの愚痴でも聞いてくれ。早く寝ちまおうぜ」
 悟浄は悟空の肩を叩いた。悟浄にとって悟空の肩は胸元までもない。
 悟空はその後ろ姿を見ながら、彼は悟浄の背中がひどく遠い存在に思えた。その間を埋められない自分をはがゆく思いながらも、どうにかして寂しい迷いの淵から救ってやりたいと改めて思っていた。
 翌朝、悟浄はにこにこして悟空に「おはよう」と言った。
 勿論三蔵にも、八戒にも、彼は礼儀正しく挨拶した。そして悟空に、
「昨夜は悪かったね。おれのこと心配してくれてるのに」
「ああ、いや」
 悟空は心配かけまいとして先に気を回す悟浄を初めて「痛ましい」と感じた。
「気を、遣うなよ…。怒ればいいんだよ。ののしりゃ。お前だけだぞ、おれたちの中で」
「何を今更。それがおれの役目さ。…そんなんじゃない。本当に後悔しているんだ。大丈夫、おれは結構言いたいことを言ってるよ」
「なら、いいけど」
 釈然としないまま、うなずくことしか悟空には出来なかった。
 その日、暫く行くと、三蔵が崖を見上げホウと言った。
「見よ。百合が美しく咲いておる」
「ほんとですね。一つつんできましょうか」
 崖の雑草の合間にびっしりと咲き乱れる百合を見上げ、悟空が言った。
「いや、ならぬ……!生あるものを損なってはならぬし、生きるに適した場所というのがある。あのけなげな花々は、あそこでこそ美しく安らかに生を全うできるのだ。このような一見過酷な土地こそ、彼らには理想郷なのだ」
 また説教か、と八戒が言うのに、
「さすがはうちの師父、そうおっしゃると思ってました」
と悟空が満足げに言う。
「でも師父、百合は球根のもの、花だけ摘んでも来年根があればまた咲きますよ」
と悟浄が言う。
「そうか。そうであるな……。そういうことであれば、煩悩を思い出すな」
「きれいな花を見ても、煩悩ですか。全くうちの師父ときたら、」
 八戒がやれやれといった調子で言う。
「煩悩は一見美しい、だから手にしたくなる。しかし手にしてもその喜びはすぐ萎れてしまう。……」
「そうかねえ」
「お前は特にあきっぽいような気がするぞ」
 唐僧の指摘に、八戒はへらへらと笑う。
「煩悩は、つみ取ってもつみ取っても芽を吹く。でももし、あの花のようなら、花を咲かせてもいずれは実を結びしぼむのだから、やはり摘まずに放っておいた方がいい」
「その言葉の意味がよく分かりません」
 八戒が言う。
「なんとなくそう思い、口を突いて出ただけだ。私にも上手く解釈は出来ぬ」
「結局は無に帰すということですよ」
 悟空が言う。
「成る程……」
 と三蔵。すると八戒、
「とにかくもう説教はやめましょう」
 ――無に帰す。そんなことが、本当にあるのだろうか。現象だけを見れば、確かに全ては無に帰す。しかし、心の中には、いつまでも残像が留まり続けるのだ。花は咲き続ける。
 悟浄は思う。
 ――しかし、人の心は移ろいやすいのも確かだ。今はこんなに好きな兄貴のことも、いつかは忘れてしまうかも知れない。
 悟浄はふっとつきものが落ちたような気がした。
 ――そうさ。情熱は冷めるものなのだ。おれはきっと、あの人を忘れる。……
 なんだかあやふやな気持ちになりながら悟浄は歩いて行った。悟浄、
「全ては無、空ですね」
「そうじゃ」
「だったらこんなつらい旅も必要ないでしょ」
 八戒。
「それを言うと元も子もなくなる。……凡俗な衆生のために、それを指し示すために経がいるのだ。理解と実践は伴わないし、なかなかそれを知るのは難しじゃ」
「なんか渺茫として寂しくなるな」
と八戒。
「寂寞感だろ」
 悟浄。
「おれはそういう辛気くさい境地に至りたくはないなあ。突然無気力になる」
「その何も無くなったところに、善の種を播くのだ。人のことを考える」
「成る程」
「何も考えないって手もあるぞ。お前にはその方がピッタリだ」
 悟浄が言う。
「何も考えねえのは、兄貴だろ」
「何を?!おれはこれでも考えてるぞ」
 腕突き上げ悟空言う。
「ばかの考え休むに似たり」
「お前に言われたくないわ!」
 悟空は八戒の耳を引っ張った。
「いや、兄貴に考えることが似合わないってのは、おれも同意見だな。考えてる前に行動してるというか、直感的というか……」
 悟浄も笑って言う。
「それはそうだけどよ」
 悟浄に言われて悟空は不承不承認める。
「それがまあ、悟空の良いところだろう」
 三蔵が言う。
「だろうって……ねえ」
 頬ふくらませて悟空は歩いて行った。
「きっと兄貴が悩むようになったらこの世の終わりが来るぜ」
 八戒が言えば、
「違いない」
 悟浄も頷いた。
 なんとなく晴れ晴れとした気持ちで一行は歩いて行った。悟浄もつきものが落ちたような軽い心持ちで、それが空虚ではないと言えば嘘になるが、久しぶりに浮き立つような、迷いが晴れたような気分で歩いていた。
「平和だな。平和すぎてイライラするな」
 暫くして悟空が不機嫌そうに言った。
「よせよ。兄貴のそういう気持ちが難を呼び寄せるんだぜ。きっと」
 八戒が辟易と言う。
「悟浄。お前随分とすっきりした顔してるじゃないか」
 悟空が振り返って言えば、
「うん。師父はやっぱり凄いよ。さっきの説教で、つきものが落ちたのさ」
 悟空はまた何やら面白くない気持ちが沸き上がるのを感じた。
「つきものとは」
 三蔵が問う。
「もう済んだことですから」
「では聞くのをよそう。再び呼び覚ましてはならぬ」
「その通りです」
「お前あっさりとしたやつだな。そんなもんか?」
 八戒が言う。
「そんなもんだったのさ」
 悟浄はさばさばと言う。悟空はじっと見ていたが、それならそれでいいさと前を向いた。
 ――あれだけ面倒をかけて、そんなもんか。
 すっきりした悟浄に、今一つ納得のいかない悟空は、斎ののち、
「お前、本当にもう吹っ切れたのか?」
と訊ねた。悟浄は器を小川のせせらぎで洗いながら、
「うん」
 悟空は悟浄が洗い終わって雑草の上に重ねる器を行李に収めながら話を続けた。手持ち無沙汰だったからなのだが、端からは仲良く作業をしているように見えた。
「なら、いいけどさ…、そんなもんなのか?なのにお前のために死にかけて、あれこれやったおれはばかみたいだな。やっぱり考えることは向かねえのかな。おれは」
 自嘲気味に言う悟空に、悟浄は胸をちくちくと刺される。申し訳なく思うと同時に、「お前のために死にかけて」という一句が、悟浄の胸に染み渡る。
「それに、師父にゃ悪いが、やっぱりおれが、お前を助けたかったよ」
「ううん……。兄貴が助けに来てくれなかったら、おれは今ここに居なかったかも知れないし、…今日の説教だって、兄貴が無に帰すって言わなかったら、おれはそこに思い至らなかったかも知れないんだ。きっかけは師父でも、直におれを助けてくれたのは、やっぱり兄貴なのさ。感謝しても、し足りない。兄貴は、ほんとに偉いよ……」
 悟浄は少し面を上げて悟空に笑いかけた。悟空は褒められると照れて、
「いやそんな……。しかし、すると何か。無に帰すということで、無に帰した訳か?そんなものなのか?」
「よく、分からないんだ…。いつか好きじゃなくなるかも知れないと思った途端、今現在本当に好きなのか確信が持てなくなったんだ。あんなに、煮詰まってたのに…」
 遠い目で悟浄言う。
「フーン。おれはさっぱり経験がないから何とも言えんな。まあ良かったじゃないか。ちょっと拍子抜けしたけど。師父は、やっぱ偉いよな」
「偉いのは、兄貴だよ」
「またまた。……おれは本当に、お前を救い得たのか?」
 悟空は悟浄を見た。悟浄は頷いた。
「おれはもっとこう、何か違う方法があると思ってたんだがな…決定的な、行動としての何かがさ。でもこんなものなのかもな。おれたち一応修行僧だもんな。……でも別 に、おれでなくても良かったよな」
 悟空にしか出来ない行動としての救い…悟浄はそれに思いを巡らす。でもそれは、愛の成就の瞬間であり破滅の瞬間でもあるはずだった。悟浄はこれ以上寝た子を起こしてはと頭を振り妄想を振り払う。悟空はくすりと笑った。
「お前には悪いが、何かつまんねえんだよな……」
「やめてくれよ、本当につらいんだから。やっと楽になったところだというのに」
「それよ。どうしてそんなにつらいんだ。人を好きになるってのは、楽しいことだろ。どうしてそんなにつらくなるんだ」
「……好きになり始めは、そりゃ楽しいさ。一緒にいられるってことが、嬉しくて仕方がない。でもだんだんと、それだけでは我慢出来なくなってきて色んな欲望が湧いてくる。でも伝えれない、伝えてはいけないんだ…となると、その気持ちを抑えなければいけない。流れる河をせき止めるのは難儀だろ?それと同じことだよ」
「成る程…おれもいつかは、その苦しみを味わうことが出来るのかな?」
「やめときなよ。身体に悪い」
「そうだな」
 そう言って悟空は立ち上がり踵を返したが、内心自分の知らないものを知っている悟浄をうらやまないでは無かった。知らない、理解できないことが人格として欠落しているような気がして、なんだか悩ましげにつらさを語る悟浄がひどく大人に思われた。
「しかし、本当に退屈……」
その後、歩きながら悟空が言う。
「悟空、私は平穏無事をこよなく愛しますよ。不吉なことを言うもんじゃない。八戒の言うとおり、災いを呼び寄せたら何とします」
 三蔵が焦って言う。
「心頭滅却すれば火もまた涼しと言いますよ。多少の災いも気の持ち方次第です」
「災いには私の関わり合いのないところで遭ってくれ」
「そうしたいのは山々なんですがね。あなたが呼ぶからしょうがない」
「するとお前は私に食われろというのか」
「そんなことは言ってません。ただ退屈なんです」
 二人は言い合いをしながら進んで行った。
「全くあの二人は似たもの同士というか、言い合いが好きだねえ」
 八戒はそんな二人を後ろで眺めながら言う。ちらりと悟浄に目をくれると、
「相性がいいんだか悪いんだか」
 八戒の挑発と分かっていながらも、悟浄はぎゅうと何かが胸を締め付け、消えた筈のほむらが微かに上がったのを感じた。
 ――やばい。またぞろ、嫉妬が始まったぞ。八戒のやつめ。
 悟浄は八戒を睨み付けると、
「いらんこと言うな。……忘れたのか?」
「おお、おっかねえ。とんでもない。どうぞお気を鎮めて下さい。悟浄様」
 八戒はおどけて頭を下げる。
「そうだ、それでいいんだ」
 悟浄は言った。
 さてその夜も村まで辿り着き、一軒の農家に泊めてもらえることと相成った。勿論家人は一行を一目見るなり驚き慌て、一筋縄ではいかなかったのだが、三蔵が家人をなだめすかしどうにか泊めて貰えることとなったのであった。その夜食事が終わると悟空は悟浄を伴って散歩に出た。
 凡夫の三蔵や荷役の八戒などは疲れて直ぐに休みたがったが、最近暴れて無くて運動不足気味の悟空としては、とても寝れそうになかったので、……夜気は爽やかで邪気を感じない土地柄であったので、散歩に出ることにした。
「全く、あれだめ、これやだ、…で何でも人のせいにする、あの役立たずのお荷物のどこがよいかね」
 まばらな林の中を、さくさくと落ち葉を踏みながら歩いて行く。もうすっかり秋の気配である。
「やたらとすぐ泣くし、ちょっと困ったことがあると猫なで声。すぐ助けに行かないと拗ねて腹立てる、恨み言を言う、その上結構な癇癪持ちだ。案外心が狭いんじゃないかと思うよ」
「口ではそんなこと言いながらも、師父のこと尊敬してるくせに」
「……まあね」
「師父は、勇気があるよ。おれは凡夫だったら、怖くてこんな旅は続けられない。でも師父は何があってもへこたれない。凄い人だよ」
「そう言うところが好きなのか?」
「え……、別にいいじゃないか。どうしたんだよ兄貴。何で急にそんなことを聞く」
 悟空はちょっと言いよどむと、
「おれ、やっぱりお前が羨ましいんだ。恋をしたことがないから、さっぱりお前の役に立てなくて、挙げ句には八戒に『ばかの考え、休むに似たり』とまで言われても返す言葉がない。八戒はぼんくらだが、色事の経験があるからおれよりお前に対して理解があるし、この件に関しちゃおれが一番下だ」
 悟浄はくすりと笑うと、
「じゃあ、八戒にその手の武勇伝を訊けよ。やつは自慢げに飽くまで微に入り細に入りしゃべるし、おれより経験が豊かだ」
「それは嫌なんだよな。やつをのさばらせるようで」
「兄貴は、凄い人だよ。そんなもの必要ないさ。そんなことで卑屈な思いをする必要は全然ないよ。兄貴はありのままでいれば充分素晴らしいんだから。むしろ汚れなき美しさを持った希有な人なんだから、自分を大事にしてくれないと、」
「そ、……そうか?」
「そうだよ。兄貴は……とっても綺麗なんだから。汚れきったおれなんかと違って。絶対汚れてはだめ。いや、兄貴だけは汚れないで欲しい。それがおれの、願い」
「ね、願い…?」
 悟空はまるで愛を告白された娘のようにどきまぎした。おだてられてすっかりその気になった悟空は悟浄の言う通り自分を大事にしようと思うのであった。
 前からであったが、悟浄の言うことなら不思議と素直に聞けてしまう自分がそこにあった。今まで何度彼の諫めや嘆願で気を取り直し、気分一新し事に当たったことか枚挙に暇がない。そして悟空は思うよう、
 ――こいつは自分を汚れた、汚れたと言っているが、一番純粋で私心のないこいつの言うことだからこそ、その気になるのかな。
 いつも誰より穏やかに、もしかしたら菩薩に一番近いのではないかと思う悟浄だからこそ。時折悟空は彼の中に存在しない母の面影すら追っていることがあった。そんな彼が、自分より汚れているなどあり得ない。
「お前は決して汚れてなんかいないよ」
 悟空はそう言うと立ち止まった。
「心は、とても綺麗だろ……帰ろうか」
 それは呟くような一言であったが、悟浄の心には深く響いた。
 愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花のかぐわしさに惹き付けられたものは、その花を貪るうちに毒を刺され殺される。
 悟空は、その花の香しさに吸い寄せられ、香りを嗅ぎ初めていたのでした。一体このあといかなる事になりますか、それは次回にて。

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