深 海 -1-

 まともな彼女がいたのはいつまでだっただろう。
 ここ十年くらいは後腐れのない人間だけを相手に選んでいた。
 ベッドの上で、煙草を吸いながら、立ち上る煙を目で追えば、窓の外には底抜けに良い天気。
 かつてそこで恋に恋する部分を持っていた自分は、理想とするかわいい子と、可愛らしいデートをしょっちゅうしていたものだけど、いつの間にか本命は作らなくなっていた。
 ――いつの間にか、じゃないわ、赤城さんなんかに引っかかってもうてからや……
「………はぁ。人生狂ったな。……」
 室内は、太陽から完全に影になっており、外と見事なコントラストを描いた暗さに沈んでいた。


「あれ?高階クン、その髪型かっこええやん。どこで切ったん?」
 月曜日の朝。事務所で赤城が原稿から目を上げ、言う。
「そうですか?知り合いが、タダで切ったるからカットモデルして言うからやってもろたんですけどね。いつもとあんま変わらへんと思うんですけど、なんか違いますかね?」
「へえーいいなー。……おれもそろそろ切りたいわ。うん、基本は変わらへんけど、毛先の細かいカットの仕上げの差かな。なんかいつもより、いい。垢抜けてる」
「赤城さんにそないかっこいい言われると、悪い気しませんね」
「アホウ、誰が君がかっこいいとか言うてん。カット褒めてるだけやろ」
「でも似合てるてことでしょ?」
「うー。……」
「……行ってみますか?紹介しますよ。タダには、ならへんと思うけど……」


 高階が紹介してきた客が、白石の勤める美容院にある日来た。
 受付でカルテを記入してもらうと、名前の欄に、「赤城耕作」の文字が綴られていく。
 この人が、赤城さん……。
 改めて、白石は食い入るように俯いて書き込み続ける男を見る。
 長めの緩いウェーブの前髪の奥に見える睫毛の長さ、綺麗な鼻筋、男にしては白い肌理の細かい肌。なだらかな曲線を描く頬。
「……今日は、カットですか?」
「緩くパーマと、カラーリングも……」
「フルコースですね。ありがとうございます」
 そういうと、赤城は目を上げ、微かに笑む。その笑顔も、綺麗目とはいえどちらかと言えば男としてかっこいい顔だと白石は思う。
 シャンプーを終え、椅子に座って貰い、鏡の中に映る自分と赤城を見比べる。
 確かに綺麗な人だ。女っぽくはないけど、どこかふんわりとしているような、でも、クールなような、色んなものが同居した不思議な雰囲気を纏っている。
 自分に似た要素を感じるが、目元のほくろとよりウェービーな髪を持つ自分の方がパッと華やかで甘い顔立ちに思えた。背も自分より高く、骨格も普通に男だ。
 高階は盛んに赤城のことを可愛い可愛いと言っていた。どこにその可愛さが潜んでいるのか、自分には感じられない。
 この首筋に、剃刀を宛てたら、どうなるだろう……
 首にタオルを巻き、上着をかけながら、白い首筋に目を注ぎ白石は思った。


 店が引けて、後輩の指導して、スタッフ総勢五人の中、中堅の白石の仕事上がりはいつも9時過ぎになる。
 あんまり遊ぶ時間も気力もなく、疲れた体を癒しについふらふらと高階のマンションに来てしまっていた。
 エントランスに着いて思う。あの男はイライラの元になりこそすれ、癒しになんかならないはずなのに、と。それでも向いてしまう足に我ながら舌を打ちたい気分で、でも早く会いたくてエレベーターに乗ってる時間ももどかしく急ぐ。
 連絡も入れずに来てしまったが、彼は1人だろうか?また女の子がいるのじゃないか。
 そう思いつつもインターホンを押すと、落ち着いた声で「誰?」といういつもの問いかけ。
 殆ど間がなかった。ともあれアレの邪魔はしてないようだ。
「……おれ」
 ドアに頭を預け白石が言うと、インターホンの向こうでくすりと笑う気配がした。
「今日はたまたま良かったけど、来るときは連絡してもらえませんかねぇ?」
 ドアを開け様、高階はニヤニヤして言う。
「まあ折角やし、どうぞ」
 拒みもしないが歓迎もしない。それがいつもの高階のスタンスだ。
 小奇麗な1LDK。部屋に上げてくれるまで、結構かかった。それでか部屋に入れると特別感がある。
 なんせこの部屋に入れるのは、本人曰く「彼女」かそういう関係の女の子でも、ある程度付き合いが長くて信頼の置ける者に限られているらしいからだ。抜け抜けと白石に向かって自分で語っていた。ごく普通の話題の感じで。
「あれ?指に傷出来てますね」
 リビングでラグに隣り合わせて座ってビールを飲んでいると、手を見て高階が言う。
「ああ……今日忙しくてうっかり鋏で切ってもうてん」
 美容師の使う鋏は高価で切れ味が鋭い。勢い良く滑らせていると、皮膚に当たって切れてしまったのだ。
「白石さん器用やのに、よっぽど忙しかったんですね、可哀想に……」
 高階はそう言うと、白石の左手を掴み、指に舌を這わせ、舐めた。
 その感触と俯けた表情に白石はカーッと頬が火照り、慌てて指を抜く。すると高階はくすくす笑う。
「可愛いなあ。照れてはる」
「からかいやがって……今日、赤城さんて人、来はった」
「ああ、そう」
「その人のとき、うっかり傷付けてもうてん」
「……赤城さんに?」
 高階の目に険が浮かび、怪訝な声で問いかける。
「いや、おれ。おれのこれ」
「ああ、そう」
 赤城の首筋に傷を付けたら……と一瞬でも思ったバチが当たったのか、うっかり傷を付けたのは自分の指だった。
 そのとき、白石はカットをしていた。すると「あ」と何かに気づいたように赤城は目を瞠り、
「すいません、やっぱカラーリングはいいです」
と言った。
「いいですけど、何で……」
と問うと、若干頬を染めた照れ笑いで、
「いや、高階クンが、カラーリングは禿の元やと……あっすいませんこんなこと言うて」
と言ったのだ。その瞬間、手元が狂った。
 指の痛みより、心の痛み。
 そしてそのときのふんわりとした意表をつく可愛らしさにああこれか、と白石は思った。

 高階と白石、2人の出会いは、半年ほど前に遡る。
 共通の知り合い、野々垣の紹介だった。

 それは高階が潮崎の事務所にまだいる頃のことだった。
 高階が潮崎の事務所に転がり込んでから、野々垣はちょっと面白くなかった。
 なんといっても野々垣は潮崎が好きなのだ。
 潮崎が決して自分みたいなのを好きにならないのは分かっているからそんなことは本気では出さないが、忙しいとき、困ったとき、電話番を頼まれるのも密かな楽しみにしていた野々垣にとって、高階は青天の霹靂、邪魔以外のなにものでもなかった。
 それにそんなことはあるわけない、と思っていても自身が潮崎が好きな身としては、女好きとはいえ赤城という男に本気だった天然たらしの高階がいつ潮崎をたらし込むのではとハラハラしていた。なので少しでも心配を排除しようと、野々垣はある日高階を飲みに誘うと、馴染みの店に連れていき、知り合いの中でもノーマルに受けそうな白石を紹介したのだった。
 薄暗いカウンターで2人並んで反対の隅っこにいる男を差し、野々垣は、
「高階さん年上好きでしょ」
と赤城のことを持ち出し言う。
「別に特に年上好きな訳ちゃうけどな」
 高階は苦笑する。
「どうです?あの子。ちょっと赤城さんみたいに男離れした華やかさがあって、でもなよじゃなくて、高階さんより年上で。赤城さんと違うのは、あんなポーッとした子じゃないってとこですかね。かなーりじゃじゃ馬というか気が強いんですぐ振られるんですけど、その位の方が高階さんは落としがいがあって面白いでしょ」
「何?それはおれと賭けでもしようって?」
「いやそんなことは言うてませんけど。傷心の高階さんをさ……新しい恋で癒してもらおう思てさ。…正直高階さん女より男の方がよりハマルでしょ。どうです?」
 2人は無言で見つめ合う。
「おれ男1人しか知らんねんけど。好きになったのも……でも、よっしゃ。のったるわ。君は単に潮崎さんが心配なだけ、やろけど、おもろい。久々に燃えてきたわ」
「彼ね。白石、ていうんです。おもろいでしょ」
と笑う野々垣。さすがに高階も一瞬呆気に取られる。赤と白…それはなんだか因縁めいてみえた。
 そして野々垣が白石を呼ぶと、機嫌の悪そうな白石がそれでも寄ってきた。
「何?」
と白石が問えば、野々垣はにこやかに横の男を指し、
「こちら、おれの仕事でお付き合いのある高階さん」
「どうも」
と高階も挨拶を寄越す。
「白石さん、最近フラ…別れたばっかでしょ」
「うるさいな。だから何?」
 不機嫌そうに、でも薄暗い照明の下でも分かるくらい頬に朱を掃く白石。高階はその伏せた睫毛の横の泣きぼくろに目を惹かれた。
「おれもそうなんで、おれとお付き合いしてみませんか?っていう話なんですけど」
 ニッコリ白石に微笑んでみせる高階。不機嫌は崩さないけど、チラリと高階を伺う白石。
「おれ、単刀直入にムードのないやつは相手にしたくないねんけど。デリカシーなさそうで。それに振られた同士が傷を舐めあうのって、なんかゾッとせんな」
「何言うてん、さみしくなるとハッテン場行ってるやつが、」
 野々垣が茶化す。
「それは付き合うのとは違うからええねん、単に発散」
「ふーん。まぁ確かにオレはデリカシーには自信ないですけどね。オレもあまり可愛げのないタイプには、そない優しくなられへんのでね……」
「あっそう。じゃこの話はなかったことに、」
「いや」
「?」
「じゃ更に単刀直入に……生ぬるく傷の舐め合いが嫌なんやったら、おれと気軽にゲームをしましょう」
「ゲーム?」
「そう。どちらが先に落とすかというね」

高階君の赤城君及び本命さん以外へのスタンスと接し方みたいなの、書いてみたかったん……10年経って、結末が浮かんで揺ぎ無い完璧さに思えたのでこれはと思い着手しました。白石さんが美容師なのはキャラ決めたときからの決定事項です。それにつけても三人称の新鮮なことよ。というかよそよそしい(笑)

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