第七回(一)

恋は木の実の熟する如く 熟れてその身を落とさせる
恋はさながら河の流れ  たゆまぬ流れは山の雫を
大河へと変えいつしか大海へとそそぎ込む

 さてある日、霊鷲山大雷音寺では釈迦如来の講義のため沢山の禅牟尼が集った。如来の言葉は妙なる世の真理を説き明かし、頭を垂れる全ての者に心眼を開かせた。
 観世音菩薩は終わったあと至福の余韻に浸りつつ帰途に着こうとしていると、人をかき分け地蔵菩薩が寄ってくるのが見えた。地蔵菩薩は一つ礼をすると、今日の講義の素晴らしかったことを称えたので、観世音も呼応し暫し歓談と相成った。
 やがて地蔵は、
「そう言えば、この間文殊師利がお出でになりました」
と何気なく言った。観世音ははっとして改めて地蔵の顔を見た。
「唐僧のお弟子の者たちを宜しくと、あの方が仰いましたが」
「宜しくと?地蔵菩薩、あなたに?」
 観世音は思わず爪を噛む。
 地蔵菩薩は冥界教主、それはすなわち死を意味することであった。観世音は文殊の影を探そうと辺りを見回す。
「今日、文殊師利は居ませんでしたよ。お弟子の者に訊ねたら、今は用あって東勝神州へ行っているとのこと」
「わざわざお知らせ下さり、痛み入ります。……しかし、私が、貴方のお手を患わすようなことには致しませんので、」
「いいえ、……文殊師利にももう返事を致しましたので、遠慮なく」
 その日唐僧たちは途路に古い道観を見つけると、宿を借りることにした。その道観の主は留守で、まだ若い道士が彼らをもてなした。
「こちらの観宇は何というお名前か。失礼ながら、扁額が朽ちて読めませんでしたが」
と斎を頂いている時、三蔵が訊ねると、道士、
「実は、朽ちているのではありません。額もなければ片手落ちなのであえて掛けてあるのですが、ここは言うなれば莫矣観と言ったところ。名前は付けてないのです」
 それを聞き、にわかに怪しさが募り、三蔵は気もそぞろ。
「して、そちらの老師は何という方で、どちらに出かけられました」
 名も名乗れぬとは何か後ろ暗いところがあるのではと、更に質問を続ける。
「私の師父は、神農の時代に道を修めそれ以来この草庵で暮らしている者で、名も、それこそ莫子と名乗っております。天地に知り合いが多く、道も仏も隔たりありません。今日も、張道陵先生の所へうかがっております次第、明日には戻って参りますのでお疑いならお会いになって訊ねられては?」
 道士は堂々と答える。三蔵は、
「悟空や。どうも怪しい。昔菩薩が禅心を試された時の事を思い出す。もしくは五荘観のこととか。ここは実は仮宅で、彼らは如来の遣いでは」
と悟空に耳打ちすれば、悟空も火眼金睛を凝らしことの真偽を確かめようとする。しかしそこにあるのはかすかな仙気だけで、家も人も本物、邪気もなければ神仙程の瑞気も見られない。
「張道陵なら私も会ったことがある」
 悟空が言えば、他の二人も「私も」と言う。
 「会って話してみれば分かること……別に大したことではなさそうです」
 と、今まで疑って痛い目を見た経験から悟空が言えば、三蔵も初めて安心し、おいしく斎を頂いた。
 彼らが仏僧であるのを見て取り、道士は、
「ここは道観ですが、南の端に大悲殿、とまではいかなくとも、小悲殿、位の観音堂があります。そちらで香花を上げられては?」
 と勧める。
 勧めに応じ師弟は本殿に上がりまず三清、元始天尊、霊宝道君、太上老君に香を炊き礼拝し、それから観音堂へと廻った。
 その道すがら、悟空は、
「他の二人はどうか知らんが、あの強欲じじいはそっくりだった。あながちここの道士の言うことは嘘ではないかもしれん」
 と言えば、八戒、
「強欲じじいとは、誰のことだ」
「決まってるじゃないか。丹練りのおじいさん(太上老君)の事だよ」
 悟空の答えに、八戒も納得、笑うと、
「あとの二人もそっくりだったぜ」
 と返す。
 小さいながらも格の高い天竺様の観音堂の扉を開けると、ほのかな献灯が堂を照らしている。師弟が進み出須弥壇に向かって香を炊き、礼拝する。三蔵が観音経を上げる間、悟空は鐘を衝き、八戒は鼓を打ち、悟浄は木魚を叩く。その間我慢出来ず悟空はついに噴き出した。
「兄貴、お経がそんなにおかしいのか?」
 八戒が訊けば、
「違う、お前もよく見てみろよ。もしやと思ったが、観音菩薩もそっくりだ。短気な面  で立っておられるよ」
 八戒も改めて見てみれば、きつい柳眉が実に神経質そう。あまり似ているので、やはりおかしさが込み上げる。笑い声を背に、心穏やかにお経は上げられないので、三蔵は怒ると二人を追い出してしまった。
 しかし悟浄だけは、余りにも似ている観音像が恐ろしくて正視できなかった。
 すんなりとした四肢に、ゆったりとした衣をつけ、細面の檀像造りの観音像は、黒光りする体にゆらめく灯りを浴びながら、礼拝する彼らを静かに見下ろしていた。
 夜中、気もそぞろな悟浄は、皆が寝静まったのを確認すると、改めて観音堂へと赴いた。物音一つしない薄暗闇の中、悟浄は観音像の前に跪き、心から懺悔と祈りとを捧げる。菩薩を裏切っているような後ろめたさが、悟浄の気をますますそぞろにさせる。
 長くそうしていると、不意に金光が辺りを照らし、何ともいえぬ馥郁たる香りと五彩の瑞気が堂を覆う。驚き慌て上を見ると、須弥壇に本物の観世音菩薩が悟浄を見下ろし居た。

 悟浄は思わず身を引く。観世音菩薩は須弥壇をヒラリと降りると、悟浄の腕を掴んだ。
「お許し下さい、菩薩、」
 そう言って腕を振り払おうとする悟浄に、
「一体何を許せというのか。折角祈りを受け、ここまで来たのだ。何をそんなに祈っていたのか、言ってごらん」
 と強く語りかける。悟浄は尚も恐れおののき、
「私は、……」
 と言ったきり言葉が続かない。
「言いたくないのならそれでも構わない。お前は私を恐れているね。正しく修行を積んでおれば、私を恐れることもないはず。お前は私に隠している、何か後ろめたいことがあるのだ」
「はい……」
「言わなくてもいいよ。私には分かっている。どうだ、苦しいのであろう」
 悟浄は深く頭を垂れ、
「はい……」
 と答える。
「では手を開きなさい。お前は痛みなく悟空のことを忘れることが出来るのですよ。文殊もその術は知っているのに使わなかったのです。もうこんなに、心身を責めさいなむ苦しみに身を焼くことはないのです」
 観世音は優しく言った。
 観世音は手にしている浄瓶から楊柳を取り出すと、一度さっと振るった。万条の瑞気がほとばしり、彩雲が漂う。
「その感情を後生大事に抱えて、一体どうなると言うのです。何が今一番大切なのか、よく考えなさい。大願成就は、もう目の前なのですよ。……なぜ返事をしないのです。長い間持ち続けたものに執着して離れられないのかね?何よりも激しい煩悩を解脱することがお前は出来ないのか」
「私は……」
 悟浄はあれほど棄ててしまいたいと、重荷だと感じていたその感情を、いざとなると手放したくないと思っている自分を発見した。その袋小路の中苦しみだけが待っていることは分かっていたが、悟空を愛していない自分など、自分ではないような気がしていた。こんなに簡単に捨て去るのは、自分に対しても、悟空に対しても冒涜のような気がしたし、その瞬間から、彼は彼の抜け殻になってしまう気がした。
 ――そんなのは、寂しすぎる……。
「悟浄!」
 呼ばれてはっとすると、観世音は楊柳を顔の前にかざし、真言を唱えた。そして浄瓶から楊柳に水を垂らすと、筆のように持ち替えた。
「悟浄、手をお出し」
 観世音は左手を差し出した。悟浄が手を出したら、観世音は楊柳で符を書き、一瞬にして忘れ去らせることが出来るのだ。悟浄は反射的に手を引き強く握った。
「悟浄!お前は……それでも出家か」
「私は……」
「符を書く以外にも法は色々あるのだぞ。お前はどうしてそう迷いに囚われるのだ。凡俗の徒め」
「菩薩、私は……自分で答を出さなければならないと思います。いいえ、なりません。そうしないと、自分に対して申し訳が立たないのです」
「聞いた風なことを。では一体どんな答が出ようというのだ。結局は同じことではないか。それなら長く患うよりは、早く忘れ去ったがよかろう。何事もありはしないのだぞ」
 悟浄はちくりと胸を刺すものに顔をしかめながら、
「それでも…私は手放すことは出来ません。これは私の宝です。私の修行の種です。大事に育てて、蓮華を咲かせてみせますから、」
「お前にそれだけの強い心があるのか。文殊の手にかかろうとしたくせに。精を漏らしたら、一巻の終わりだぞ」
「存じています……」
 観世音はじっと悟浄の伏せた面を見ていたが、腕を伸ばし引き寄せると無理矢理手を開かせようとした。
「やめて下さい……!」
 悟浄は身をよじり腰から宝杖取り出すと、その腕から逃れた。
「困ったやつよのう、己は」
 観世音は楊柳を振り上げた。金縛りの法を掛けられると一瞬で悟ると、悟浄は印を結び呪除けの呪文を唱えた。
「悟浄、お前を勧化したこのわしに、逆らおうというのか」
「お願いです……」
 悟浄は宝杖を手放し磚の上に土下座した。額をすりつける彼に、
「お前の気持ちが分からない。なぜそこまで……。よいわ、立ちなさい」
 観世音は苦々しげに言った。
「仕方がない。今日の所は預けておこう。でも、忘れ去りたくなったらいつでも言いなさい。いいですね。私は待って居ますから」
「菩薩、私は……」
 観世音は暫く逡巡していたが、
「あのね、文殊に習った真言を、覚えておるか?」
「あ、はい……?」
「私は決してあれを唱えるようなことが起こるのを勧めない。でも、一応知らねばならんこともある。……あれは、唱えぬ  に越したことはない、強力な秘法なのだ。一度しか唱えられないと思いなさい。あれは、七代の運を使い果たすといわれる秘法なのだ」
「一度だけ、……ですか」
「そう。でも一度だけで済むようなことではないだろう。それが私は恐ろしいのだ。それに、姦淫するような事があったら、僧侶の資格は失ったも同然、釈迦如来がお怒りになるだろうことも間違いない。秘法は天誅を避けられても、如来は避けられないかも知れないよ。どう効能するか、私にも予測はつかぬが」
「肝に銘じておきます」
 観世音は溜息をつくと、
「私も甘い。悟浄、私をがっかりさせるなよ。私は如来に怒られたくはありませんからね」
「はい」
「私の名を称名すれば、私はたちどころに現れ、そなたに救いをもたらしに来ます……しかし、呼ばねば来ませんよ」
「はい」
 言いつつも、心中深く悟浄は決して呼ぶことはあるまいと思っていた。
「菩薩。私はどのようにこの恩に報いればよいのでしょうか。いかにして不敬を償えばよいでしょうか」
 悟浄は再び地に伏せた。菩薩は何かを覚り、
「それはただ一つ。大願を成就し無事に全うすることです。頭を上げなさい。まだ早いですよ。謝るのは」
 苦い思いが二人の間を去来する。
「もう一度よく考え直しなさい…ここはもう天竺国、大雷音寺まであと少しです。ほんの少しの辛抱ですよ……」
 観世音がそう言うとどこからともなく強い風が吹き、悟浄が風が収まって目を開けると、そこは元のしんとした暗い堂に戻っていた。
 悟浄は改めて檀像に深く礼をすると、そこを辞した。
「昨夜私は観世音菩薩に会いました」
 と次の朝悟浄が言うと、三人は驚き、
「やっぱりここは神仙の住む所か」
「いや、あんまり似てたんでびっくりして夢に見ちまったんじゃないか?」
 と口々に勝手なことを言う。三蔵が、
「菩薩は何か、仰っておられましたか?」
 と訊ねると、悟浄は頭を下げ、
「大願成就は目の前だと、ほんの少しの辛抱だと、無事に全うせよと仰いました」
 と言えば、三蔵は大層喜び、
「そうか。励ましに来られたのか。そう言えば一体何年経ったことだろう、……お前たちには大した年月ではないかも知れないが、私は随分年を取った」
 としみじみと言った。
「なかなかどうして。おれたちにとってだって、大した年月だよ。……五行の因縁の外に住む身としては、師父のように年を取ることはないけどさ」
 とやはりしみじみと八戒も言う。
 悟浄は浮かぬ顔。とてもしみじみとなどしていられぬのであった。それでも、と彼は思った。どれだけ長い年月を、師兄を見て過ごしてきたのか。それに比べれば、これからの道程などものの数ではないだろう、と。
 悟空はふと旅の終焉を思い浮かべると、その後一体どうなるのか、皆とちりぢりとなり元の役職を返して貰い、昔通りの生活に戻って行くのか不安になった。その時自分はどうするのか。天界に八戒や悟浄が戻ったとしたら、……戒を返し、神仙として暮らしてゆけるのなら、その時初めて自分は想いを打ち明けることも出来るだろう。しかし、悟浄は何と答えるだろう。
 悟空は軽く頭を振ると、
「今そんなにしみじみしてる場合じゃないだろう。行ったって帰って来なきゃ片手落ちだ。そんなことは、終わってからだ」
 と言ったので、皆はっとし、慌てて出立の用意をするのであった。
 莫子の帰りを待つ間もなく、彼らは先を目指し旅だった。

BACK NEXT

あんまり言うことはありません。観世音や文殊に成りきるのは偉くなったみたいで結構楽しいです……

Copyright 2005 Lovehappy All Rights Reserved.