第二回

観世音、五台山に赴き
禅主に見え是非を問う

 さて南海は落伽山普陀崖なる紫竹林潮音洞より、観世音菩薩は祥雲を飛ばすと、恵岸と善財童子を連れ五台山碧摩巌までやってきた。
 主なる文殊菩薩は来光を知り自ら出迎えると、奥に請じ入れ香茶と仙果仙桃を持ってもてなした。
暫くの歓談ののち、観世音菩薩は用件を切り出した。
「さて文殊菩薩、他ならぬ取経の僧たちのことだが、そなたはいらぬちょっかいを出したそうだね」
 文殊菩薩は茶を一服すると口を開いた。
「どこからそのような噂を耳に挟まれたのかな」
「唐僧を護りに遣わしている日直の五方掲諦たちが非番の日にやってきたのだ。聞けばそなた、妖魔の真似などして悟空や悟浄の禅心を惑わしたそうではないか」
「惑わすとは人聞きの悪い。良かれと思ってやったこと。感謝されこそすれ、非難を浴びる道理はないと思うが」
「あの者たちは私の弟子、余計な手出しは無用にしていただきたい。ましてやいらぬ ことをけしかけられて、私が如来にお叱りを受けるようなことがあったらなんとする」
「善哉善哉、菩薩は自己の保身のみ患いて弟子の身を救うことには心を砕かれぬと見える」
「いざとなったら私が救いに行きます。どうもそなたは水面に石を投じ入れ、さざ波の立つのを喜んで見ているようなところがある。何事か間違いが起こって大事を誤るようなことがあってからでは遅いのです」
「大事の前の小事、禅心の本を悟れば何ということはない。彼らは未だに修行の身なれば、救済を持って正しい行いに導けば、心平らかになり大事を誤ることはないと思うが」
「ではなぜあのような方法を採られるのか。文殊菩薩、そちの救済は、何故かように法ぎりぎりのところなのだ。どうかすると行きすぎである上にまるで懲罰のようにも見える。そなたの救済の定義、本は何なのだ」
「あのこと、そのことと菩薩は言うが、一体そなたは私が何を知りどうやってどの方向へ導いたのかを逐一存じられておられるのかな?」
 観世音菩薩は恵岸と善財童子をちらりと見遣った。
「それは、弟子の手前こんなことは言いたくない」
「では暫く席を外してもらえばよい」
「いや、その前にとくとそちの考えを聞きたい。救済の本を、沙門の道を、一体どう考えておられるのかを」
「成る程。いいでしょう。お弟子たちにもとくと聞いてもらいましょう。……救済は智を持ってなす、それが私の信条です。智を得ることこそ幸せへ至る道、正しく物事を見極める智を得れば、目の前の迷いは晴れ、救われることができるのです」
 観世音は得たりとばかりに言った。
「それは沙門の救済とは違うであろう。今日こそは言わせてもらいます。それは例えば一つ山を越えた所で状況は何ら変わるところがない。いずれまた壁にぶつかるに決まっておる。救済の基本は、慈悲の心だ。慈悲の心で救ってこそ、人は心安らかに永遠に救われることになるのだ。煩悩には数限りがない。迷いは煩悩から起こるのだ。その煩悩の火を消すには火の手が上がるたび水を掛けているだけではだめだ。しばらくの追い風に遭い煩悩の元なる薪が乾く頃、何らかの火種が必ずその薪に落ち、またもや燃え上がる。そんな薪は取り去ってしまえばよい」
「だがそういう薪は取り去り難い。なぜならその薪は、人の、生きとし生けるものの、生きている証に他ならないからだ。生きているということは欲求の積み重ねなのだ。薪が燃えているのは、生命が脈動し、燃えている証なのだ。その火が消え去った時、人は成長を止めてしまい、生きていることの理由そのものが滅し去るのだ。全ての矛盾を混沌と受け止めることこそ大事で、是や不是はない」
「確かに悟りを得ろうとすることも欲ならば、善を行いたいと思うことも欲、欲なくして生命は維持できぬ 。しかし、全てを是としてしまえば、悪心を断つことは出来ぬ。自身の悪も断てねば、他人の悪も見過ごすことになりかねない。人はなぜ悪心を起こすのか。それは機知などで癒すことの出来ない心の渇えから来ることは間違いない。慈悲をもって当たれば、人は初めて人の心に潤いの水を引き、その水は枯れることがない。そして慈悲の心を身につければ、どんな災厄が降りかかろうとも自ずから不幸を感じることはない。慈悲の心を持って救済するとはこのことを持って言うのだ」
「大慈大悲の観世音菩薩よ。では愛をどう捉えるのだ」
「大智大覚の文殊菩薩よ。愛はいかな愛をもってしても無償の愛に替えてこそ、貴く邪心を退けよう」
「菩薩よ。生命には抗いがたい二つの持って生まれた宿命がある。一つは生命あるものは他の生命を食してこそその生命を維持できるという殺生の宿命であり、たとえ精進で生臭を断ったところで生命あるものを殺してないとは言えないのであって、それで満足しているのは欺瞞である。植物ですら年経ればその内に精を宿す。そのことに気付いてこそ人は世の理を知り敬虔に生きることができる。すると自ずから仏の教えに沿うことになるのだ。
また、生命は道教でいうところの、陰陽を配しなければならない宿命を負っている。子孫を作るために生きているようなものであり、アレは飾りではない。その衝動を愛と呼ぶなら、愛欲は生命とは切れない縁なのであって、ごく自然なことなのだ。それを、不淫などと称し、一切断ってしまうなど、それが自然な生物の生き方なのか」
「だからといって菩薩、淫欲法は決して許されることではない。そんなことを言っておれば、修行も何もないではないか。そなたは仏の教えを間違っていると思っているのか」
「仏の教えはそんなものではないと言っているのだ。その神髄はこの世界の全ての理を知ることであり、己の心の仏性を尊ぶことにあり、他力本願が主旨ではない。仏性とはすなわち自身に対する絶対の信頼であり、信頼の拠り所となる大智が備わってこそ悟りも生まれる。そうすれば仏を拝すことなど必要ない」
「そんな考えでは破戒の限りを尽くすことになる。私は、私の弟子には身を汚すことは一切教えない。身を清く保つことこそ、魂を清らかに保つことに通 じる。厳重に戒律に準ずるべきである」
 文殊は善財童子の方を向いた。
「善財童子。こんな厳しい師父の元ではさぞ窮屈でしょう。どうです、私の弟子になりませんか。もっと自由に、楽しく暮らすことが出来ますよ」
「お、おれ?」
 急に話を振られて漫然と菓子を食べていた善財童子はすんでのところで菓子を喉に詰まらせる所だった。隣の恵岸が太股をつねり、小声でささやく。
「おれじゃないだろ。せめて私と言えよ。あーあやだなあ妖怪上がりは」
「うるせえよ腰巾着」
「何?兄弟子に向かって何だその物の言い様は…全く礼儀を知らん山出しめ。何で師父はお前みたいなのを弟子にしちまったんだろうねえ」
 観世音菩薩は一つ咳払いをした。弟子は小競り合いをやめて師父を伺う。観世音は、二人をじろりと睨んだ。
「私の弟子を勧誘するのはやめてくれ。……と言いたいところだが、案外いいかも知れぬ 。師父が型破りで問題児だと、弟子はどういう訳だか、よく出来た人物になるものな。そちの弟子など、皆人が出来ている」
「私の教えが良いからとは言ってくれぬのか」
「思えない」
 その時文殊の弟子の地恵童子が茶の代わりを持ってやってきた。善財童子はこっそりと聞いてみた。
「お宅の師父は手が焼けるのかい?」
 地恵童子は外見こそ善財童子より幼く八~十歳に見えるが、年は遙か上、落ち着いた笑みを見せると、
「そうですね。退屈を嫌う方なので、しょっちゅう驚かされます」
「へ~~え」
 善財童子は今でこそ観世音の弟子だが、元は牛魔王と羅刹女の間に生まれた生粋の妖怪腹、この間まで聖嬰大王と号していた。唐僧を捉えて食べようとしたのがきっかけで悟空が菩薩の出馬を請い、投降し弟子になったのである。気が荒く神通広大で武芸も達者なので悟空同様金の箍をはめられている。とはいえ見目麗しく妖怪離れしている
 この金の箍は観世音が如来より賜ったもので、金、緊、禁の三揃えである。緊箍児は悟空に与え、禁箍児はやはり妖怪であった黒風怪に与え守山大神として紫竹林へ連れ帰り、金箍児は五つの輪に変えて善財童子の頭と両手足首にはめられている。一見美しい装身具に見えるが、実は彼の癪の種となっていた。
 そんな弟弟子と違って、恵岸は天界の将、托塔李天王の第二子、血統正しい天界の者である。気が合わないのも致し方のないことであった。
「おれも体験弟子入りしてみようかなあ」
 今度は観世音が手加減無く善財童子の太股をつねりあげた。
「痛い!」
 文殊はおかしさに肩を震わせ笑っていた。
「師父、そんなに気の短い事じゃ困ります」
「私が気が短いだと?」
「観世音、だから嫁の貰い手がないと悟空も言っていたんだろう?」
 観世音は硬直すると顔を紅くした。
「私は女じゃない!」
 善財童子と地恵はしのび笑いをしていた。恵岸は困惑していた。
「だからね、君も恋をした方がいいんだよ。そうすれば短気も直る」
 文殊は得たりとばかりにやにやして言った。
「そういう文殊菩薩は恋をしたことがあるのか」
「私は俗世に投胎するたびに恋をしているよ。今までも男や女となって色んな恋をした」
「そういえばそちは俗世に投胎するのが好きであるな。何故自ら好んで苦界の中に身を投じたがるのだ」
「苦界、苦界と上の者は言うが、退屈しなくて実に面白い処なのだよ、あそこは。不幸も幸運も楽しみの一つ。全くここで安穏な暮らしをしていることのなんと味気ないことよ。ありとあらゆる思惑の入り乱れた俗世はそれに比べると刺激に富んでいて数倍面白い」
「そんなに退屈が嫌ならいっそ菩薩の地位を捨て輪廻の中へ堕ちてはどうかね」
「観世音、思い違いをしてはいけない。私が地上に投胎するのは、退屈しのぎもあるが、一人の人生を歩むことによって智を磨き、衆生の苦しみの何たるかを身を以て知り、修行に代えているのだ。ただ上から眺めていても本当の救済の拠り所はつかめない。そなたもたまには投胎してみてはいかがかな」
「私は結構だ……。ところで、そろそろ肝心の話に移ろうと思うが……」
 観世音は弟子たちに席を外すよう命じた。
「そちは、悟浄が恋を患っているのを知り、それに乗じて妖魔の真似をし、その貞操を奪おうとした。悟浄は悟空を好いており、そなたは悟浄に淫欲を満たすことを勧めた。それで間違いないね」
「当たらずとも遠からずだ。成る程私は彼を抱こうとしましたが、本当にやってしまいたかったら、八戒などが来る前にとっくに力任せにねじ伏せることは出来た」
「ではあれは試したというのか」
「それもまた違う。いや、少しは合っているか。その前に呑気で潔癖な観世音、そちは悟浄が一体どれ程苦しみ、どの位せっぱ詰まった状況だったと思っているのかね。あの時誰かが救いの手を差し伸べなかったら、彼は間違いなく破滅していたよ。確たる意志のないまま、恋心に引きづられて、精を漏らしでもしたらそれだけでもうお終いだ。本人とて山のような後悔を背負い、絶対に自ら落伍していく。または、死を選ぶか……。はたまた、気が狂ってしまうか……」
 文殊は上目遣いに観世音を見つめた。観世音はきっと文殊を見据えている。
「そんな彼を、誰がほっておけるというのだ。どうかすると本当の魔物に会いその手に落ちぬとも限らない。だから私は行ったのだ。……取りあえず、試すことはしましたよ。その応対如何では、私はあの者を救わず、懲らしめたかも知れない。でも、多分助けたでしょう。悟浄は、いざとなると私を激しく拒否しました。どうなってもいいと思いながらも、何処の馬の骨とも分からん風情になど、というか、精を漏らすことなどとんでもない、自分は出家であるという意志強固です」
「結構なことではないか。何故そこで帰さないのだ」
「それは私が彼を欲しかったからです」
 観世音は眉を吊り上げるとさっと面に朱を走らせた。
「ウソです……ははっ、それはね、それが解決になり得ないからです。それではただ一日命を永らえるに過ぎないでしょう。病を去るには…苦い薬を飲むか、病根をえぐり取らなければ……」
「荒療治という訳か。成る程結構。しかし、そちは悟浄の煩悩を取り去ることはしなかった。邪淫を満たすことを勧めたね。そちはさっき、生物の宿命とやらを説いたが、男女間の愛はともかく、同性のそれは、全くの邪淫とは思わぬかね。語るに落ちるとはこのこと」
「観世音。その話はちょっと後にして、悟空は悟浄が惚れるに足らぬ男だと思うかね」
「汚い男だね。君は。…そんなことを私に訊いて、どう答えてもらおうと思うのかね」
「悟空は全く素晴らしい男だよ。一個の人格としてもね。私は、悟浄は本当に見る目があると思うんだ。折角の素晴らしい恋を横から奪い去るなんて勿体ないと思うんだ。本当に真剣な恋をしているしね。ゆっくりじっくりと、自分で片を付けて欲しいと思うのだ」
「悟空を巻き添えにしてかね」
 観世音の声が荒くなる。
「悟空も一度くらいは恋というやつをしてもいいと思うんだ。高潔も結構なんだが、生まれてこの方一千五百年以上も恋をしたことないのはちと勿体なさすぎる。西天へ着いてしまえばそんなことも言っておれなくなる」
「だったら悟浄が相手でなくても良いだろうに」
「別に私は唐僧でも構わぬとは思うのだが……」
 観世音は手に取りかけた茶碗を卓に置くと文殊を睨み据えた。
「それはさすがにまずい気もする。第一あの生真面目なお前さんそっくりの唐僧は綺麗すぎて可哀想な気がする」
「ホラ、それはそなたがそれを良くない事と感じておるからそういう言葉が出るのだ」
「まあね。でも一度くらい、きっかけがあり、縁があれば恋に落ちても良いではないか。良いことというのは、その局面 局面で変わってくる。一つの答は常に絶対ではない。私とてむやみに淫にふけることを勧める訳ではない。しかしそれがもし、最良の道となればやむを得まい」
「そんな感情は知らずに身を清く保てればそれが最良だ。一度愛欲を満たしてしまえば、とめどなく欲を覚え淫を重ねる。やがてその相手に飽きが来ても、一度覚えたその快楽は、相手を代え抑えがたいものになろうて。そんなこと手に取るように分かっているのに、西天を目の前にしてそんな苦しみの種を植え付けるつもりかね」
 文殊は微笑んだ。
「実は私もあまり定見はないんだ」
「あきれた……」
「私もそこのところはちと心配だ。真摯な気持ちでなら許せる範囲だと思うのだが、欲に更けてはまずすぎる。まああの二人は真面 目だから余り心配はないと思うのだが……。如来の怒りを買ったら、今度は何処まで堕ちて追放されるだろうね」
「呑気なのは本当はそちの方ではないのか、文殊菩薩」
「仕方がない。悟浄はもう好きになってしまっているんだ。それはいかにしてか解決しなくてはならない。我々がやめろという筋合いは全くない。確かに道理には外れている。しかし決して卑しくはない。そちはどうするね。下手なことを言っても追いつめるだけだ」
「……それでそちは歓喜天の秘法を?」
「そうだ。天地の怒りを買っても身を防げるだけの法はやっぱり身につけておかないといけない。いかなあの二人でも、いわんや私が弁護したところで、許されるとは限らない。しかし、他に道はない。観世音よ、そちもじっくりと考え、救済してやるがよい。しかし、清潔なお前には荷が過ぎるであろうな」
「私はどうにかして身を正しく持する法を探しその愛とやらを、清らかに昇華させる道を示そうと思うぞ。それが私の教えの道なのだからな。取りあえず礼は言っておく。それでは、邪魔をしたな。色々有意義な話が出来た」
 観世音は席を立つと弟子を呼んだ。
 門まで来ると観世音は文殊に向き直った。
「文殊菩薩、最後に一つ……」
「うん?」
「知は諸悪の根元。人間は知性さえ持たなかったら、この世に災いをもたらすことも無かったろうに」
「……。つまり君は、私を認めないという事だね」
「私たちは相容れないというだけだ。……私は、そなたは好きだよ」
「私もだ。君の高潔性を愛しているよ。御身大切に」
「また会おう。……もしかしたら、如来の前でな」
「では、雷音寺で……」
 観世音は祥雲を踏むと一条の金光となり飛び去った。
「師父、あんなこと言っていいんですか」
 善財童子が訊ねた。
「いいのだ。文殊とてそのことは重々分かっている。知は両刃の剣、悪も生めば善も生む。その知をいかに正道へ導くか、それがかやつの仕事なのだ」
「だから彼は剣を常にたずさえているのだよ」
 兄弟子の恵岸が横から言った。
「ふうん……凄い方ですね。師父とはえらい違いで面食らっちゃったけど。あんな方もいるんですね」
「じゃあやつの弟子になるか?緊箍呪付きで」
「いいえ、結構です……。それより、あのう、悟空共のなんとやらいう揉め事は、何なんですか?」
「それをお前が知ってどうするのだ」
「そんなこと、からかいに行くに決まってる……。痛え、」
 観世音が呪を唱えたので、善財童子は悲鳴を上げた。
「ばかだな。お前は。お前が師父を怒らせるんだぞ。いつも。自業自得だ」
 恵岸があきれたように言った。
「師父、慈悲慈悲、助けて下さいよう、」
 三名は揉めつつも南海目指して飛翔して行った。
 さて、このあとはどのような事件が待ち受けていることでありましょうか。続きは次回の講釈にて。

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えーと、そんなこと思う方は居ないと思いますが、この話に出てくる仏教の解釈はですねー、この話に都合のいいように理屈をこねくり回したものなので、本物ではないのでよろしくです。個人的には文殊に言わせた、ちゃんとしてれば仏を拝すことは必要ないと思ってます(大体仏教って哲学でしょ?)。でも、仏像や寺や儀式は見てて面白いので好き。

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