第十回(一)

二菩薩仏に見え其の経緯を聴き
心猿黄婆報いを受け冥府に至る


 彼らは長い混迷とすれ違いの時を脱け、心身あるべきところに収まり、遙かな彼岸へと到った。しかし心休まる時も束の間、彼らは本当の彼岸へ旅立つこととなる――。

 さて、八戒はなかなか男らしく悟浄のことを思い切ると、あのことを蒸し返さず二人をからかうようなこともしなかった。心の傷はなかなか深いようである。
 また二人も心の充足を見てからは、むやみと色気を出さず、いちゃつくようなこともなく、ただ信頼関係をのみ強くし、互いを干渉せず、三人は表面上は元通り、いや前よりずっと落ち着いていた。
 三蔵は怪しげな気配のあった三人が、何故だか知らぬがすっかり落ち着きを取り戻し、堅固な絆で結ばれているようなのを喜び、格別問いただすこともなく旅路を急いでいた。
 そんなときの物語。

 大西天雷音寺ではある日観世音と文殊の二菩薩を召されると、二人を前に釈迦如来がお出ましになった。叩頭する二菩薩を前に、如来は台座に座を占められると、響くような声でおっしゃった。
「その方ら、精進しておるか?」
「はっ」
 二菩薩は頭を下げたまま答えた。
「善哉。弟子たちは、法を敬い道を修めておるか」
「はっ、日々研鑽し修行に励んでおりまする」
「ほうほう。では観世音ともあろうものが、管理不行き届きなこともあるのじゃな。観世音ほどの者でも、あまねく世の動きを知るのは難しいようだのう、それとも職務怠慢かな?のう文殊」
「エ?」
 引きつった顔で観世音は面を上げる。文殊は無表情で平静を装いながらも内心はびくりとした。しかしすぐに心を静め、
「観世音は常に真面目に職務をこなしています。怠慢などということはあり得ません。…見落とし位 は、あるかと思いますが。忙しい身なれば、」
とかばう。
「いいえ、…私の落ち度です。それでは、起こってしまったのですね?」
 観世音が蝋のように白くなった唇から言葉を発すと、如来は悠然と
「うむ。…」
 文殊は大変な話が始まろうという時乍らなぜかホッとし、嬉しくなった。
 次の一語を聞くまでは。
「大変なことになっているぞ。弟子三人の内一人を巡って他の二人がそれぞれ関係を持った。二晩の内に続けて淫が貪られたのじゃ」


文殊は言った。
「懼れながら、世尊。
世尊の仰るに、「この世は全て空であり、諸無常であり、実体なきものである」と。その言に従えば、かくの如き行動にも、明白な理が得られます。決して破戒などと小さなことで括られるようなものではございません。この真理に基づけば、戒律など些末なことでございます。もっと大きな真実を彼らは掴んだものと思われます」
 如来は言った。
「いかな戒であれ、彼らはその戒を受け入れ出家したもの。それは誓願を破ることに他ならないのであるから、彼らは罰されるに値する。戒律はむやみと抑制のためのみ設けられたものでは非ず。自制をよくする者のみが、厳しい求道者としての生活に耐えうるのであり、その自制の為の戒であれば、そのうちの一つを守れぬ者など他の何を守ろうとも、全てを破るに同じ。到底堪えられるものではない」
 文殊は言った。
「世尊は彼我なき正邪なき垢浄なきと問われたのではありませんか」
 如来は言った。
「いかにも、この世の全ては不垢不浄、不生不滅、全てに実体はない。観世音よ、どう思う」
 観世音は、叩頭して言った。
「仰せの通りでございます。しかしてそれは戒を破るということを認めるものではございません」
 文殊は言った。
「畏れながら、淫行にしても、他人を受け入れられないのは彼我がある証拠で、彼我なきを唱える世尊の論にしては、おかしいのではないのでしょうか。彼我なく全てが斉しいとなれば、他人を受け入れ、一つになるのも、道理に適っていることで、それこそ全てを是とし、無とし、空とし、一として受け入れる境地の達成を見たことになりはしまいか。そもそも他人、という観念自体が意味を成さないものとなってきはしまいか。彼は我であるとすれば、一体何を以てして他人、我という分別 がつきようか」
 如来は言った。
「徒に詭弁を弄するか」
 文殊は言った。
「私は決して詭弁を弄するものではございません。…無分別智は不二の法門。その真如の理を以てして、これは量るべき物です」
 如来は言った。
「不二の法門は太乙の玄門と同にして異。万物斉同は道の玄妙なり。お前は道に少しく傾倒しているのではないか。仏門において求法者は修身にいそしみ一切の虚飾や快楽を享受すべきではない。戒律は修行者達を清浄で何よりも剛きものとする為に、また在家やその他の衆生に脅威を与えんが為設けられたもの。この世における方便である。それが守れぬ者など、もはやわしの弟子である資格はない。
これからわしはあの者らにその是非を問う」
 文殊は言った。
「それなら私もお供を」
 如来は言った。
「いや…その方ら二人、ここに居てもらうこととしよう…。阿難、迦葉、二菩薩をお連れしろ」
 文殊は如来をふり仰ぐ。
「世尊…!」
「わしはお前の利発なことをかわいがり、自由を与えすぎたようだ…」


 二菩薩は阿難と迦葉に連れられ暫く歩いて行った。天竺様の小さな堂の前まで来ると、阿難が錠前を開き、かんぬきを外して重い板戸を開いた。あまり使われていないお堂のなかからは、少しこもった臭いがした。
「ここで我々にどうしろと?」
 文殊が問うと、迦葉、
「中で瞑想などして修行に励まれるようにとのことです」
 文殊は草木一本も見あたらない辺りを見回し、
「観世音よ、すまないな。お前までこんな前科持ちにしてしまって」
「お前のせいではない。私自身の甘さ故だ。私はここで静かに瞑想します」
 観世音はそういうとうつむきながら進んで堂に入って行った。文殊も一つ息をつくと、やれやれといった風情であとを行く。二人が入ってしまうと、二弟子は扉を閉め、鍵をかけた。
 ほぼ正方形の堂の中には簡単な須弥壇が祭ってあり、四方に大きな連子窓がついていた。文殊は窓の側に立ち、観世音は須弥壇に礼拝し香を焚くと文殊の近くまできてへたりとしゃがみこんだ。
「結局お前悟浄から恋を奪い去ることはしなかったんだな」
 文殊が見下し言うと、しゃがみ込んだままの観世音は、片手であごを支えながら、
「いいや。行ったよ。頑迷に執着を放そうとしないので、力任せに取り去ろうとしたが、相手も術者だったので叶わなかった。それだけのこと。凡夫だったらあっさりと取り去っただろうに」
 文殊は労るように微笑むと、
「またまた…。お前のことだ。悟浄ごときの術など、ものの数ではないだろう。その気になれば、幾らでも技があったはず」
「……」
 観世音は目を反らしたまま、無言でいた。やがて億劫そうに口を開くと、
「……何だか判らなくなってしまったんだ。激しく抵抗されて。あの大人しい悟浄がだよ。この私に楯突いて。何だか凄く悪いことをしているような気がしてきて……」
 観世音はうつむき頭を抱えた。それを聞き文殊ははれやかに笑うと、
「だって悪いことだもの。それは当然だよ」
 観世音は面を上げ、きっとにらむと、
「その良いことの顛末が、これだぞ…!一体何が良くて、悪いんだ。私は判断を誤ったのか」
 そして観世音は再びうつむいた。
「いいや。お前さんは、間違ってはいないさ」
「お前に一体何が判るんだ…」
 観世音は呻くように言った。
「まあな。まさかおれも、…とは予想外だったが」
 文殊も嘆息して言った。
「何が予想外だって?」
「…だよ」
「声が小さくて、分からないよ」
 挑むように観世音が言う。文殊は決まり悪そうに、小声で、
「まさか八戒が、からんでくるとは思わなかったってことだよ。あいつさっぱり興味なさそうだったのに、」
「もういい、言わないでくれ!とても気分が悪い!吐きそうだ。…」
「すまん」
 二菩薩はそれから言葉も交わさず、じっとしていた。
「それにしても、いつまでこんなとこに閉じこめる気だ。…おーい」
 文殊はいたたまれず、外に立っている迦葉を呼んだ。しかし迦葉は一瞥をくれただけで返事もしない。
「ちぇっ、すかしてやがる…」
「お前に拘わるとろくな事にならないと知っているんだよ。私のようにね…」
「きついな…まるでおれが疫病神みたいじゃないか」
「みたい、はいらないよ」
 相変わらず億劫そうに言葉を絞り出す観世音を苦笑しながら文殊は見下ろしていたが、どうにか隙を付いて出てやろうと外に気を張り巡らしうかがった。
 と突然視界に普賢菩薩の顔が入ってきた。
「うわっ、びっくりした」
「お前さんついにこんな問題を起こしたね」
「助けに来てくれたのか?」
「そんな訳あると思うかい?私はお前さんに振り回されるなぞ真っ平なのさ。様子を見に来ただけだよ。可哀想に観世音もこんな、巻き添えをくって、」
「それが相棒に向かって言う言葉か?」
 文殊が連子窓を掴んで言うと、普賢菩薩は顔色ひとつ変えず、
「お前さんと組むのは疲れたよ。いい加減お前さんも脇侍はくびだろうから、私は忙しいのだ。新しい人材を捜さないといけないからね。今度はもっと厄介でない、出来た者を掴まえないと、」
「薄情者!誰よりも柔和な、品の良い面差しのくせに。一体何しに来たんだ」
「様子を見に来ただけだと言っただろう。…そうそう、如来は冥府へ行ったよ」
「冥府…?」
 文殊の顔が厳しくなる。
「澎斗城で十王の裁判にかけられて、地獄巡りさ。そのご報告まで。それじゃ」
 普賢菩薩は手を振り去って行く。
「おい、お前…!ほんとにそれだけか、薄情者ー!」
 文殊は連子窓を揺さぶる。あきらめの悪い文殊の様子に、観世音は、
「なかなかどうして、普賢はいい相棒じゃないか。お前と組むには、あのくらい自分をしっかり持ってないと振り回されて疲れるだろうからね。お前との距離の置き方をしっかりと心得ている。私のようなへまはやらないだろうさ」
「また、そんな…。ひどい言われようだな。しかし、冥府か……」
「お前折り込み済みだろう。何をそんなに焦って難しい顔しているんだ。こないだ地蔵菩薩に会ったとき、頼まれたと言っていたぞ」
「会ったのか、お前。地蔵に」
「声聞に来た時にね。向こうから訊ねられたよ。お前に頼まれたから遠慮なくと言っていた」
 文殊の表情の厳しさはいや増すばかり。何かを思い、じっと中空を睨む。その表情を見、観世音は、
「お前でもそんな顔するんだな…。にやにやしているばかりじゃないんだな」
「冗談じゃあないぜ。……ここは結界がきつく張ってあるから、様子も視れないな…」
「何がそんなに心配なんだ」
「何もかもだよ…お前こそ、何そんなに糸の切れた凧みたいになってるんだ」
「何だかバカバカしくなってきたんだ。何もかも。どうでもいいよ。お前を怒るのも、何もかも」
 文殊は厳しい顔を解くと、笑った。
「いい感じだぞ。そうさ、それでいいんだよ。一歩仏に近づいたってところだな。この世の中に在るものは、全てが空しいものばかり。一々わずらわされるなんてバカバカしいことなのさ」
「そんなことは、先刻承知のつもりだったのに、体得したのはどうもこれが初めてかも」
「お前は真面目で潔癖性だからな。…優等生なんて、自慢にはならないよ。だから恋をしろと、言っただろ?今接吻でもしてやろうか?」
 観世音はきっと睨み上げ、
「結構だ」
「お前はやっぱりそうでないと、だな。……しかし、こうしてはいられない。……」
 爪を噛む文殊に、
「お前こそどうしたんだ。何かに患わされるなんて、バカバカしいことなんだろ……?何がそんなに気にかかるのさ」
「……」
 文殊は黙として答えない。
「地蔵菩薩かい?」
 依然として顔色一つ変えない文殊に、
「お前と地蔵菩薩は、何か特別な因縁があるようだ…。地蔵菩薩も慈悲を司っているが、彼は冥府が職場だ。なかなかどうして、一筋縄ではいかないものを感じたよ。…くせ者同士だな」
「まあな…」

 一方地上の三蔵一行。
 二人は突然ころりと転がるように昏倒した。八戒腰を抜かすと、はいずって行って二人を揺する。三蔵もあわてて馬から飛び降り、
「八戒、二人はどうしたのじゃ」
 八戒は二人が息をしていないのに気がついたが、努めて明るく、
「なに、気を失っているんですよ。暑さにやられたかな」
「皆最近どうかしておるぞ。難の内にはこんなこともあるのだな」
「いや、師父の難ではありません。師父の難には決して私がいたしませんから、」
「どういうことだ」
「とりあえず木陰に運びましょう。一時待って、気が付かなかったらその時考えることです。…おれは火遊びで火傷位で済んだからよかったが、こいつら、熱々に燃え上がりすぎてついに焼け死んでしまったか」
「八戒、何のことだ」
「いえ何でもありません」
 フーンとにらむと、三蔵、
「お前たち最近こそこそと何か私に隠しているであろう。私に気遣い思いやって隠しているのであろうと良い方に考えようとしていたが、本当のところはどうなのだ」
「滅相もない、師父には一切ご迷惑はおかけしません。師父には何も拘わりのない、下らん兄弟げんかですよ」
「現にこうやって迷惑をかけているではないか」
 三蔵は二人を指さした。
「あなた様を妖魔の手から救うよりは簡単な事だと思いますよ」
「………」
 三蔵は眼底をも見抜くような目で、
「それならいい。待つことにしよう。人を疑うべからず。人間素直が肝要だ」
「そうです、師父、全くその通りで」
 八戒は勢い込むと、二人を抱え上げ木陰に下ろした。
 さて二人は陰鬼に先導され冥府まで連れて来られた。
「兄貴、やっぱりおれたち死んじまったんだな」
 不安げに言う悟浄を抱き寄せ、
「大丈夫、ここ位なら安心。おれは二度目だ」
 森羅殿へ赴き閻王の前に引き据えられると、悟空はオウと片手上げ、挨拶する。
 閻王は苦虫を噛みつぶしたような顔で、
「大聖。困ったことになりましたぞ。私はここで裁判をしますが、私はあんたの言うことをまに受けて地上に送り返してもかまわんのだが、…ねえ地蔵菩薩、」
 地蔵菩薩は優しく笑みをたたえている。
「私の裁判は信用ないらしいので、一応やるのだが、如来殿がお出ましになりますぞ」
 二人は顔を見合わせた。
「力勝負かな」
「色々やりたいらしいですよ。特に問答を心待ちにしておいでで。ここにお呼び立てしたのは他でもない、負けたらあなた方は別々の地獄に堕とす予定になっとるんだが、とっとと堕とし易いようにです。さて…」
「ちょっと待て、八戒の死に損ないは、本当に死に損なったのか」
「彼は呼ばれてません」
「彼は充分の仕打ちを受けました。因果あり応報ある。…充分あがない、高めたのでお呼び立てしませんでした」
 地蔵菩薩が慈悲深い声で言った。悟浄はその言葉を聞きたまらなくなると、
「おれが悪いんだ、おれ一人が悪いんだ。八戒も、兄貴も…、おれだけを裁いて下さい、」
 ひざまずこうとする悟浄を抱き止め、悟空、
「バカ、落ち着いてろ…、取り乱すな。取り乱したら負けだぞ」
 地蔵菩薩も笑いかけ、
「そうです。勝たねばなりませんよ。観世音も、…文殊師利も、謹慎中なので、救けに来ることが出来ません。全てはあなた方の心がけ、禅心次第なのです」
「げっ、」
 悟空はことの大きさに、今更ながら驚いた。
「二菩薩は放してやれば良かろうに」
「大丈夫です。ただここに来て、入れ知恵をしないようにです」
 悟空少し安心すると、悟浄を見上げ、
「落ち着いたか?」
と問う。
「兄貴、おれはもうだめだ。一足飛びに地獄へ飛び込んで行きたいよ」
「あほう。気をしっかり持ってくれ。おれが守ってやる」
 悟浄、その言葉を聞き、心中何かを悟ると、
「いや兄貴、守ってはいらん。自分の身は自分で守る。おれは、人に、迷惑をかけないことに決めたんだった」
とまなじりを決した。
 泰広王は一つ咳払いをすると、閻魔帳を広げ、
「さて、孫悟空、うぬは、…うぬは、何歳だかさっぱり分からんな。全く余計なことをしてくれてるよ。閻羅王、先に罪状を読み上げてくれ」
「承知。…さて、孫悟空、そちは、…長いな。大聖。随分と罪の上塗りを重ねて来られたようですな」
「そうかね」
「一々読むのかね…」
 閻羅王は隣の平等王に訊ねる。
「読まずばなるまい」
 平等王は目を閉じうなずく。
「これは裁判をするとなるとかなり時間がかかるぞ…。誰がこんな細かい表記をしたんだ。(ちょっとはしょってしまおう)さて孫悟空、そちはまず東海龍王を脅し四人の龍王から宝物をだまし取り、」
「それは違う。貰ったんだ」
「龍王訴えしも大赦を受け、特別の温情をもって天職を受け弼馬温に任じられしも官の低きを嫌い職を擲ち一度謀反を起こした」
 悟浄は時もわきまえずその時のことを思い出すとくっくっと笑った。
「笑うな……、早く先を読め」
「さて、その後二度赦され斉天大聖の地位を得るも、播桃園を荒らし、西王母の瑤池に至り座を荒らし、兜率宮へ赴き仙丹を盗んだ。ひっとらえんとするを地上に走り、二度謀反を起こした」
「ああ確かにそうかもね。若気の至りという奴だ」
「此度の罪赦し難く、斬妖台にかけられしも刑難く、八卦炉にかけられしも出でて火焔山を生じ人々に災いの種を落とす。更に天宮を騒がす。如来の手に五行山に押さえられしを唐僧に救われ、弟子となるも心安からずあまた人を殺しける」
「悪人ばかりだ、寿命だよ」
「更には戒を破り淫欲を生じ邪淫を行う」
「やってない」
 目を閉じ平然とうそぶく悟空をぎょっとして悟浄見ると、
「兄貴!」
「論戦は始まったんだ。おれは、やっとらん」
 閻羅王は少し沈黙して咳払いすると、
「じゃ、そういう事で。次、沙悟浄。…泰広王、」
「ううむ。…彼は仙籍なれば、齢の程も氏名も分からぬ。やっぱり閻羅王、その方一人で頑張ってくれ」
「一服する暇もないのか。…まあいい。大聖に比べたら短いものだ。さて沙悟浄、そちは五百余年前播桃会へ招かれし折りに玻璃の杯を割り地上に追われしも、殺生を重ね人を食べていた」
「はい」
 悟浄は素直に頭を垂れた。
「戒を受け出家となるも、淫を好み邪淫を重ねた」
「それは、…」
「罪を認めるか?」
「あほう、早く違うと言え、」
「言ってどうなるんだ」
「減一等だおれが保証する。如来に勝つだけで元に戻れるぞ」
「だけ、って、勝てっこないよ」
「ばか野郎、この期に及んでおれを怒らす気か。お前はさっき、おれに迷惑をかけんと言ったじゃないか。さあ、早く言え、」
 悟浄は渋々と、
「違います」
「ああ、うむ…じゃ、振り出しに戻ったと言うことで、」
 十王はこそこそと判決を出すと台を降り引き取って行った。
 やがて冥府に祥雲を漂わせ、釈迦如来が悠然と現れた。一座に付く者は皆伏拝む。悟浄も悟空も伏拝んだ。
「孫悟空。全くお前は手の焼ける厄介な奴よのう。せっかく禅心を起こし順調に天竺まで来たのに、今一歩のところでそのような者の色香に惑わされるとは。どうじゃ、後悔しているであろう」
 悟浄は指さされ硬い顔つきになる。
「おれは何一つ後悔なんてしていませんよ。今まで後悔したことは二、三度あったが、いつもそれは後に実りをもたらしました。だからおれは自分の行動には責任を持ち、後悔しないことにしたのです」
 落ち着いた声で悟空は言った。如来は笑うと、
「ふん、いくばくかの進歩あったようじゃの…しかし、移ろいやすい愛なるものに押し負かされ、淫にふけるとは、全て台無しとは思わぬか」
「何のことを、おっしゃられているので…」
「たわけ!わしは何でも見通しじゃ。四直や土地神や掲帝を遠ざけようが、そんな事はあまり意味がない。あの日は太陰星君がお出ましになっていたが、彼は宗旨違いでまあ何とも思ってはおらぬであろう。しかしわしは、あまねく三界に起こることを観ることができるのじゃ。ましてやおぬしたちの事に注意せぬ訳がない」
 悟空は表情を引き締めると、
「私は、先程も申し上げましたが、後悔はしない男です。この度もかならずや大いなる実りを持って前進する糧と成したいと思います。しかし、試練を甘んじて受けようというつもりは毛頭ありません」
「では、愛していると言い切るのだな」
「……はい」
「沙悟浄。その方全く哀れな奴じゃの。せっかく下界に身を落とし、卑しい姿に成り変わり、我が門下に下り戒を受けながらも色恋の業から逃げられぬとは。その方何人の人を惑わせれば気が済むのか」
「偉大なる釈迦如来、私は決して人を惑わそうなどとは思っておりません」
「お前はそう思っていなくとも、相手はそちの姿に惑わされるのだ…平穏無事であった筈の旅が、このように乱れきった様相を呈したのは、お前一人が原因ではないのか」
「私は、ただどうしようもなく好きなだけです」
 悟浄は目を伏せた。いたたまれず悟空が言う。
「如来、そんな言い方はないんじゃないかと思いますが、」
 地蔵菩薩がくすくすと笑った。
「文殊師利はあなた方が目に入れても痛くないらしいですよ」
「地蔵」
「はい」
 如来がたしなめたので地蔵菩薩は澄ました顔をした。
「……?」
「さて、我に経、律、論の三蔵あり。ところで悟空、お前たちは何を取りに来ているのか?」
 悟空は上目にちらと如来を見ると、
「……その、三蔵の経です」
「そうじゃ。その方ら受戒し精進せしと言えども、山中に戒を受け格別教えらしい教えも受けていない荒法師、多少のことは大目に見たが此度のこと赦し難し…。その方らは取経の途上なれど、今特別に律蔵を開いてやるから、刮目して見るがよい。汝らがいかに破戒し重い罪を犯し、更に罪の上塗りを重ねているかを」
 如来が一巻の経巻を二人の前に投げると、経巻はパラリと開き、少し転がって止まった。
 律――四分律戒経である。二人が目を落とすと、如来曰く、
「汝ら、幾ら何でも知っておろう。…五戒とは」
 二人は顔を見合わせ、…うつむく悟浄を見ると悟空は敢えて如来を見据え、
「不邪淫、不偸盗、不殺生、不妄語、不飲酒、…ですが如来、はばかり乍ら、私は仏門に下ってよりこの方、盗みもしたし、悪人を殺しもしたし、酒も頂き、八戒だって、ウソなんて幾つついたか数えることも出来ません。それが一体何だって今更このようなお叱りを受けるのでありましょう」
「愚か者め。よく見てみよ。仏法の戒とは何か。…戒を犯すとはどういう事なのか、…汝らは道はよくするが、法は一向に心得ぬ。今のお主が言った五戒は、在家の、優婆塞優婆夷の為のものだ。確かにお主は妖精、悪党の類を殺し、時には物をだまし取り、種々の宴で酒杯を受け、時には騙りもした。しかしそれ全て唐僧を助け、法を守り、善を為さんがため。いわば方便である。しかし此度のことは言い逃れようもない犯戒で、前のこととは性質が違う。それとも何か言い訳があるのなら申してみよ。しかもお前はその罪を指摘されても懺悔しようとも、認めようともしない。これは犯戒にも及ぶ大罪である。本来なら即刻放逐されるべきものである」
「……私共は、心から、その、……互いを必要とし、愛を誓いましたので、結ばれたのであり、決して邪なものではないのですからさっきの告訴は到底受け付けられないものだったのです、故に、懺悔も認めも致しませんでした」
 それを聞くと如来は微笑い、
「どうせそう言うと思っておったわ。…今一度、しかと律を確かめてみよ。不邪淫ではない、不淫だ。人畜生を問わず出家は淫を行ってはならない。勿論男子相手でもだ。ついでに言うと、自ら陰を弄しても四大戒に準ずる罪であるが、懺悔をすれば赦される。どうだ、お前言い逃れできるか。悟浄は気分が悪いようだね」
「おれは、…自分一人で破滅すべきだった」
「恥じらいは花の匂うが如く、強い色香を放つもの。八戒は今そんな香気を発散させる悟浄に堪えるのに、どれ程刻苦していることか。お前の身体は、今、虚飾を去る出家に不相応な程の、甘い、危険な色香を強烈に放っている」
 とくとくと戒律を述べる如来に悟空は顔色を無くしていたが、悟空はすぐに反駁し、
「そうですよ、こいつは今一番可愛い時、きれいな時なんだ。なのに出家だからということで、こうやって手を出すことが出来ない。おれだって刻苦していますよ。戒律なんてどこかおかしいのではありませんか」
「とうとう戒律批判まで始めたか。ではお前は出家はどうあれば良いと思っているのだ?」
「とりあえず折角地獄までお出で願ったのだから、地獄巡りでもしていただきましょう。その間に自分の為したことを冷静に見ることができれば良いこと。自分が何処に堕とされるか、気になるでしょう?」
 地蔵が神秘な笑みを浮かべて言った。
「悟空、お前はこれからよくその愛とやらを見つめるがよい。わしは文殊に言った。お前たちにどれ程の覚悟や考えあって行為に及んだか自覚はあるのかなと。彼は必ずやお前たちは本を捉え事を為したと信じておる。裏切るなよ…」
 二人は底に潜む冷たい響きにぞっとしながらも、
「私は、私共は決して菩薩を裏切るような事は致しません」
と悟空が言った。

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最初っからこの先を書くつもりで、エロったのだけど、全く身の程をわきまえない、自分の能力を遙かに超えたプロットを作ってしまったので、いよいよこの先はいつになるか分からないですー。
 この回も、如来と文殊の問答をもっとしっかり、前後を付けるべきだったのに、良い展開とセリフがひねれず、はしょっちゃいました。…あああ。

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