第一回(二)

性火宅に在れば水宅に沈み
心猿壺に入りて邪淫を破る

 妖精は奥の部屋の寝台まで悟浄を運ぶと、昏倒している無防備な彼を暫く楽しそうに見ていたが、悟浄の紫のしごきに手をかけた。
それを解いてしまうと、右脇の黄色い直綴の合わせ目の紐を解き、そのまま肌着の脇紐も解いて前をはだけさせた。魚族ではなく、龍族でもない、おそらく蜥蜴か蛇を想わせるぬ めらかな青味を帯びた肌を露わにする。そしてそれらにありがちな、鞭のようなしなやかさがその肌に見て取れた。彼の体つきは、充分骨っぽいながらも、そのきめ細かな肌の故か、どこかしら女性性を感じさせた。いや、女性とも違う、限りなく中性に近い感じを受け、嬉しそうに妖精は(ころもへんに庫)子の紐を引くと、面 倒臭く編み上げてある草鞋の紐を解き(ころもへんに庫)子ごと鞋を脱がせきった。
 立って見たり寝台に座って見たりしていた妖精は、座って胸に悟浄を抱き寄せると、惜しむように肩に手をかけ直綴と肌着の二枚をすべり落としていった。……
 気絶していた悟浄は、ふっと目を覚ますと天蓋のついた立派な寝台に寝ていた。薄紅色の蚊帳越しに室内を見ると、そんなに広くはなく、造りも簡素で、その寝台が一つと、寝台の側に紫檀の机と椅子が一つずつある他は窓もなく、扉が一つあるだけだった。
 机の上には香炉が置いてあり、なくともいえぬ馥郁たる香りが辺りを漂っていた。
「!」
 悟浄は身を起こすとぎょっとした。何一つ纏っておらず、白い上等の紗が一枚掛けてあるだけだった。彼は溜息をつくと、その紗をかき寄せまた横になった。
 やがて扉が開き、先程の妖精が現れた。本性は何か知らぬが、その姿はまことに清々しい。彼は道衣を着て剣を下げていた。剣は道家の証、彼はまことに道士なのだろう。手に持つ盆には白米を持った碗が一つ、浄瓶が一つ、線香が何本か、白い小皿が何枚か重ねてあり、他に黄色い短冊に朱墨と筆、火のついた燭台があった。
「……?」
 悟浄はそれが何らかの儀式の準備だということは予測が付いたが、何をする気なのか全く予想できない。
 かの怪道士はそれを卓に置くと、自らは寝台の縁に座った。
「もう目は覚めているでしょう」
 悟浄は彼に目を走らせると、彼の涼しい切れ長の目が鋭く見つめていた。
 ぞくり、とすると悟浄は紗を身に纏い、身を起こした。
「あんたは、何者なんだ、何のつもりで、こんな……、」
「私は見たとおりの道士ですよ。この水宅は私の修行の場。今まで様々な修練を重ねてきましたが、もうあと一行で内丹が完成する、そこでそのためにあなたにお出で願ったという訳です」
「………?あんたの言ってることは、さっぱり分からない。おれに何の関係があるというんだ」
 道士は立ち上がると、北斗を踏み、卓の上に小皿を並べその中に浄瓶から水を注いだ。線香を手に取り筮竹のように混ぜ、額に付けてから何本かに蝋燭から火を点ける。何やら印を結び呪を唱えると、筆を取り朱墨で符をしたため、火で燃やし水の入った小皿に入れた。更に印呪を念じる。一通 り儀式が済むと、彼はそれから再び悟浄に向き直った。
「分からないって?そんな訳ないでしょう。陰陽交媾に決まってます」
 悟浄は声にならない叫びを上げた。早鐘のように打つ胸を震える手で抑え、あとずさると、押し殺したような声で言った。
「ばかなことを言うな。おれは男だ。陽に陽を配合したところで、太一は得られない。ばかりか、理に背いた交媾は死に至るぞ」
「知ってます。そんなことは。だったらなぜ、と言いたいんでしょう。ははは…あなたはびっくりしすぎて、口も利けないみたいですね。あなたは陰の気が重い。性情に因るものでしょうね。そして私も、いささか陰の気がある。あなたが『震』なら私は『兌』といったところだ。そこで、あなたでも充分と言うわけですよ」
 道士はじっとねめまわすと、一番上の袍を脱いだ。
「そんなのこじつけだ、おれはごめんだ、」
 寝台に上がってくる道士に恐れをなし、悟浄はじりじりと隅へ逃れていった。
「安心して。悪いようにはしませんから。気持ちよくやってあげますよ」
「冗談じゃないぜ。お前も相手を見る目がないぜ。おれみたいなのとやらなくっても、お前ほどの化けっぷりだったら幾らでも美人が掴まるだろうに、血迷ったこと言ってないで、おれを返せ」
「いやいやそんな。あなたは、素敵ですよ。……この上なく、そそりますよ……」
 道士は手を振って笑う。
「お前の目は、節穴か。……それともよっぽど趣味が悪いんだな。折角の美形が、勿体ない」
 こんな時に唖然としてしまった悟浄は、腕を掴まれてしまった。
「その少し化け物じみた所も色っぽいんですよ…私があなたを気に入ったんだから、それでいいんです。……あなただって、私となら悪くないでしょう?美形と認めて下さるんならね」
 道士は手を引き倒そうとする。
「ばか野郎、誰がお前となんか……、」
 悟浄は空いている手で拳突く。二人は暫く揉み合っていたが、一向らちがあかない。肩で息を付くと、悟浄は遁身の法を使って逃げ出そうとした。蚊帳をめくろうとすると、壁のようにつるつるで開けられない。
「無駄ですよ。結界が張ってあるんだから」
 振り向くと道士がすぐに迫っており、あっと思う間もなく組み伏せられた。
「おれに服を返して、逃してくれ。おれは、そういうことはしたらいかんのだ」
「ほう。何で」
「……おれは出家なんだ」
 道士は両腕を掴む手にじわじわ力を加え、重身の法で悟浄を押さえつけながら見下ろし、
「……あなた、本当に帰りたいですか?私は、あなたが呼んだんですよ?」
 悟浄は目の前が暗くなった。昨夜の悟空の言葉が甦る。
「どうにかして欲しいんでしょう?あなたの愁いを晴らしてあげようというのに、何でそんなに抵抗するんです」
 その言葉を聞き抵抗する気力を失った悟浄に道士は顔を近づけると、ささやいた。
「もう、どうなってもいいんでしょう……?」


「兄貴。成る程悟浄は水に沈んじまったみたいだが、意味がよく分からん。火宅の人とは、何のことだろう」
 八戒は読み下すと、悟空に紙を返しながら言った。悟空はずっと河面を睨んでいる。
「お前、行ってこい」
 悟空は指示した。
「兄貴は」
「おれは水が苦手だ。それに、助けないからな。おれは悟浄の荷物を持って師父の側で待ってるから」
 悟空は身をこごめ衣類を抱えると、その中から悟浄の宝杖を八戒に渡した。そしてすたすたと去って行った。
 しょうことなしに八戒は水の中に潜っていくと、程なく岩に鉄扉を付けた洞門に行き当たった。八戒は扉を叩いて呼ばわってみたが、しんとして物音一つしない。ぐわんとまぐわを一発食らわすと、門はがらがらと崩れた。
 大人しくなった悟浄に、道士は満足そうに微笑むと、首筋に口を寄せた。
 ――そうだった。もう死んでもいいと思ってたんだっけ。
 助けないと豪語していた悟空の顔を思い浮かべると、悟浄は目を閉じた。道士は優しく身体に手を這わせる。触れなば落ちん風情の悟浄は、意に反して過敏に沸き上がる官能に、微かな吐息を漏らした。
 八戒は中に入ってみると、中に水はなく、松や竹、李などが美しく生えている。前方に道観が一つ。八戒は道観の中へ入って行った。
 愛撫を繰り返していた道士は不意に立ち上がり、卓の前でどこからともなく紙で作った人形を出すと、剣持ち歩■(堽からつちへんを取った字)し呪文を唱え聖水を口に含み紙人形に吹きかけた。
 突如道観内であちこちの扉がバタンバタンとめくれると、八戒めがけて何匹もの妖怪が得物を持って襲ってきた。
「うわあっ、」
 八戒はあわてふためき妖怪をまぐわでなぎ払うと、それは紙となってひらひらと落ちていく。
「しゃらくさいまねしやがる…『剪紙成兵術』なんぞ使いやがって」
 ふーふー息つくとぶつぶつこぼしながら奥に進もうとする。
「お客さんが来たようだ」
 道士は悟浄をかき抱くと扉の向こうに消えていった。悟浄は身体の火照りが静まると、そっと薄物の蚊帳に触れた。やっぱりぴくりとも動かすことは出来なかった。
「これはこれはお客様。ようこそいらっしゃいました」
 剣をたずさえ笑みを湛えて道士が言う。
「あんたにちょっくら訊きたいんだが、うちの弟分がここにお邪魔してないかね」
「……知りません。弟御とは誰のことです」
「沙和尚っていう青い顔をしたやつなんだが」
「ああ彼なら丁重におもてなししてますよ。今茶を飲みながら話をしていた所です」
「なんだそうだったのか。そんなら早くそう言ってくれりゃいいのに、術なんかけしかけやがって。おいらにも一杯ごちそうしてくれよ」
 八戒信じて道士に近寄る。道士は剣持て遮った。
「できません。お帰り下さい」
「そんなけちなこと言わずとちょっとごちそうしてくれるくらいいいだろう」
「聞き分けのない豚め、これでもくらえ、」
 道士は剣を振るって八戒に斬りかかった。八戒もまぐわで応戦する。
 三十合も合わせたが、道士手強しと見ると八戒は敗走した。
 妖道士はあとを追わず戸締まりをすると、元の部屋へ戻って行った。
 八戒が洞門を出るとき傍らを見ると、
 ――碧水青蓮洞
と刻んだ石が立っていた。
「やっぱり妖怪だ!」
 八戒は水面へ急いで上がって行った。
 道士は部屋に入り蚊帳をめくると、また隅に身を寄せている悟浄を引っ張り寄せた。
「お客さんて、誰のこと」
「その辺の魚の成り上がり者、友達の妖精ですよ。もう帰しましたから」
「こんな時間に、おかしいんじゃないか?」
 もしや兄弟子たちが助けに来てくれたのではと一縷の望みを持っていた悟浄は、さっきまでの大人しさもどこへやら、再び抵抗をし始めた。
「夜行性の妖怪なんですよ。まだ陰気が重く、陽気(昼間)の下には出られないので夜遊びに来るのです。修行の足りないやつですよ」
 いかにも妖精の世界にありそうな話である。
「あなた、一体何だと思ったんです……?まさか誰か、助けに来てくれるんじゃないかなんて思ってるんじゃないでしょうね……?」
 冷たい瞳でそう探るように言われ、思いを砕かれた悟浄は、今度こそ本当に投げやりな気持ちになった。
 ――なるべきようになっただけだ。これが当然の成り行きさ。
 我知らず悟浄の頬を涙が伝った。その涙を道士は舌先ですくった。
「私はあなたを救いたいんですよ。本当の意味でね……」
「救ってなんかいらん。おれを煮るなり焼くなり好きにしろよ。……その後本当に食っちまってもいいぞ。そうだ、もう死んだほうがましだ」
「何でそんなに死にたがるんです……私はそういう類の妖精ではありませんよ。ここでずっと、二人で睦まじく暮らすというのは、どうです」
「またバカなことを…『罪を天に獲れば、祈る所無し』って言うだろ?おれは流人だぜ。贖罪の途中で落伍したら、おれは二重の落伍者だ。……このまま、浮かばれずみじめな気持ちで生き永らえるくらいなら…」
「そんなに自分を責めて、どうするんです。さあ、気を楽に持って」
 妖精は肩までの悟浄の黒髪に手を差し込むと、唇を重ねた。
「天界に戻るより、自由で気ままな暮らしがここにはありますよ。あなたの選良意識次第でね」
 抱き締めたまま、床に倒れ込むと、二人は長々と舌を絡め口付けを交わした。
 悟空は悟浄の着物を抱えたまま、何度も何度も紙片を読んでいたが、八戒が帰ってきたので様子を訊ねた。
「やっぱり妖怪が出やがった」
 八戒は一通りのことを話した。
「道士のなりをしているって?」
 悟空は咎めるように行った。
「ああ、なんか気に入らないのか?」
「別に……」
「それにしてもやつ、何のために悟浄を引っ張り込んだのかな。師父も捉まえに来るつもりだろうか」
「いや、師父は大丈夫だろう」
 断固と悟空言う。
「兄貴、どうするんだ。もう見捨てちまうか?それとも誰か頼みに行くのか?おれはもう行きたくないんだけどな」
「ばかもの。……」
 悟空は思案していたが、ふいと立ち上がった。
「やっぱりおれが行かんと話にならんようだ」
 手に持っていた紙を、彼はぎゅっと握りしめた。
「水の中だぜ?」
 八戒が驚いて言う。
「洞府の中に水はないんだろうが」
 悟空は悟浄の着物を風呂敷に包み身体に付けると、宝杖取り魚に化けて水の中に入って行った。
 壊れた鉄扉の洞内に入ると成る程水がない。見事な壺中天の有様である。
「……」
 気配を察した道士が、悟浄から顔を上げた。
「また客が来た」
「誰、」
「私の同輩、最も気の合う友達です」
 道士は未練らしく悟浄の身体を撫でていたが、寝乱れた衣紋を軽くつくろい上着を引っかけ、剣をたばさみ再び出て行った。
 悟空は道士を見ると礼をした。
「さすが私の友達、礼儀を心得ていますね。何か用ですか?」
「私にはあなたの正体が粗方分かっております。どうか弟分を返してください」
 道士は笑った。
「できません」
「何故こんなことをなさるのです。あなたは有徳の仏門の徒、私たちに用があるなら昼間でもいいではないですか。それをそんな道士の真似などして、まるで誘拐のように悟浄を連れ去り、八戒を追い返し、今またおれを追い返そうとは。せめて一目会わせて下さい」
「いやですね」
 道士はスラリと剣を突きつけた。
「剣、青蓮華…二度も乗り物に邪魔させた挙げ句(第三十九回、第七十七回)、主人のあなたまで邪魔しようというんですか?……あなたは他の菩薩とは、ちょっと違うようだ」
「そう、私は観世音辺りとはひと味もふた味も違う。仏門の中ではちょっと異質だね。……嬉しいね。手がかり全部解いてくれて」
「文殊菩薩、あなたは一体悟浄を掴まえて何をしようというんです。こんな大げさな真似をして」
 化けたままの文殊はにっこりと笑って言った。
「書き付けを読んだでしょう?火宅の人、すなわち煩悩の業火に焼かれて悩んでいる彼を、私が真理に導き助けてあげようっていうんですよ……私自身、楽しめる方法でもってね……」
 文殊は楽しそうにくっくっと笑った。
「やつはそれをありがたく受けているのか」
「今のところは嫌がっていますね。私の正体を知らないせいもあるかも知れないが」
 にやにやしている文殊を見て、悟空はなにやら焦りを覚えた。
「済んだら返してくれるのか」
「判らないね」
「何?」
「だって彼が望まないかもしれない」
「何で望まなくなるんだ」
「彼の悩みはそういうところさ」
「畜生、それが救いといえるのか、」
 悟空はむらむらとしてきて耳から鉄棒を取り出した。
「面白い、私とやろうというのか。私をその辺の坊主と思うなよ」
 文殊は智恵の剣をかまえた。悟空も棒を取り型を取ると打って出た。神器はぶつかるごとに瑞気をほとばしらせ、両名ともに大いに武威を輝かし、その戦いは相譲らず誠に見事であった。
「悟空、お前は私が誰だかまだよく分かっていないようだね」
「何を、」
「なんで私がわざわざ水府にしたと思うんだい。私が真言を唱えれば、この洞府は壊れ、お前などひとひねりだ」
「畜生、なんて悪知恵の働く和尚だ、釈迦如来に訴えるぞ」
「どういたしまして私は処世術を扱う智恵の神だよ。訴えたところで痛くもかゆくもない。ちゃんと大義名分は用意してある。私にとって意味のない事は何一つないのだよ」
 文殊は本相を現すと両手で道家とは違う、仏法の印を結び始めた。悟空は仏法には疎いので何を始めたのか分からない。文殊の髪が逆巻き全身を金光がとりまく。文殊は「吽……」と真言を唱えた。
「さよなら悟空」
 突然ゴボッという音がすると、天上に穴が空いていた。水が苦手な悟空は驚くまいことか早く悟浄を救い出さねばと悟浄の宝杖に呪をかけ血を吹きかけると、道観の結界目がけて投げつけた。
「悟浄!」
 宝杖は結界を破り壁を破って反対側の壁に突き刺さった。
 悟浄は悟空の声と聞くとはっとして面を上げた。壁に刺さっている宝杖を手に取り、紗を腰にしっかり結わえると、蚊帳をめくった。結界がなくなったので、悟浄は蚊帳をめくることが出来た。扉を開けると、道観の外に悟空と、さっきの道士に似た瑞光に包まれた菩薩が向き合い立っていた。
「兄貴!」
 悟浄は大声で叫んだ。
「嬉しそうな声を出して……。彼は多少は救われたかも知れませんが、まだ帰す訳にはいきませんよ」
 文殊は腰に手を当て悟空に向かって言った。
「おれが来たんだ。おれが助けて帰る」
「これは笑止!お前になど助けられるものか。お前に助けられるのは身柄だけで、魂は救えまい」
「助けられるか助けられんかはまだ分からないだろう?おれはまだやつの悩みってやつを知らない。だけど兄弟なんだ。助けてみせるよ」
 文殊は仕方ないといった風にくすくすと笑った。
 悟浄は側まで来ると、それが文殊菩薩であることを知った。腰を抜かす程びっくりして、彼は柱にしがみついた。
「……菩薩、あなたは、私を探偵しにいらしたのですか?如来か誰かの差し金で」
「違いますよ。沙悟浄。私は私の考えてあなたを救いに来たのです」
「救いに……?」
「そう。それとも今この猴と帰るかね?煩悩に身を焦がしたままで」
 悟浄はぴくりと身体を震わせた。
「お前にこの答が出せれば帰るがよい。『道を修める者として、避けなければならない二つの偏った生活がある。その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。』」
「ああ……」
 悟浄はくずおれた。
「忘れるなよ。死を選ぶことは最大の煩悩だ。一生どころか永劫浮かばれないぞ」
「悟浄、どうしたんだよ、来いよ」
 悟空は手招きした。悟浄は頭を振った。
「出来ない、出来ないよ……」
「悟浄、」
「行けない、おれは行けないよ……」
「教えろよ。お前の悩みはなんなんだ」
 悟浄は頭を振るばかり。悟空はいらいらしてきた。
「兄貴…請你殺了我吧」
「は?」
「お願い……殺生したとは言わせないから、おれを殺してくれ」
 文殊は楽しそうに言った。
「それはなかなか素敵な考えだ。悟浄、特別に許すよ。さあ悟空、お前に出来るならやってごらん。私も請け負うよ」
 文殊は涼しい顔で腕組みし二人を見ている。
「やるなら早くおし。穴から水が漏れるのを抑えているんだから」
 悟空は鉄棒を握りしめた。
「どうしてもおれに悩みを打ち明けるのが嫌なのか」
「すまない……」
 悟空は鉄棒握る腕に力を込め、振り上げた。
「……」
 悟空は棒を勢いよく横へなぎ払った。柱が木っ端微塵になる。
 悟空の如意金箍棒は一万三千五百斤、触れたものはただではすまなかった。
「おやおや、悟空、お前は悟浄を救うことが出来ないのかい?」
 悟空は文殊を見た。
「手前を殺してやる……」
「すっかり頭に血が上ったね」
「兄貴、やめて、」
 文殊は印を結び真言を念じた。水が滝のように流れ込んで来た。悟空は棒を振りかぶり文殊に殴りかかった。文殊は剣で受け止める。
「全くお前は最高だよ、悟空。お前がちょっと頭を巡らせば、悟浄も助けられるのにな……、お前は何故私を殺そうとするのだ」
「おれに悟浄を殺させようなんて最低の非道いことをするからだよ」
 渾身の力を込めた悟空の武術は文殊を圧倒した。文殊は身をひらりとかわすと、肩で息をした。
「非道いと思うか。お前はまだ甘い。痛み無く救われはしないのだぞ」
 文殊は剣に向かい呪を念じた。足元にたまってきた水が鋭い刃となって悟空を襲った。
「こんなものがおれの身体を傷付けるか」
「お前の弱点は水の中、そして煙りだったね」
 更に真言を念じ文殊は悟空に煙を吹き付けた。
「菩薩、もうおやめ下さい」
 悟浄が文殊の腰にしがみついた。悟浄は印呪を唱え巽に向かって息を吐いた。悟空を取り巻いていた煙は一陣の風によって吹き飛ばされた。
「悟浄、お前はどうする」
「死にません」
「では、身体と心の悶えをなんとする」
「我慢します」
「帰りたいのか」
「兄弟子がここまで私を助けようという気持ちを持っていてくれているなら……私はそれだけで満足しようと思います」
「そんなこと長持ちしやしないぞ……」
 文殊は悟浄を立たせると呪文を念じながら印を額に当てた。
「楽しみが減ってしまった。もっと念入りに、手を加えてやるつもりだったのに、猴めが逆上するから」
「よく言うよ。自分が挑発したくせに」
 悟空は地面に座ったまま、水に濡れながらポカンとしてその様子を見ていた。文殊菩薩の人差し指が、額から鼻梁、唇を伝い、胸まで降りてくると、突如悟浄の体の中にズボッと入った。
「うわっ、」
 悟浄は思わず身を引き悟空は鉄棒取り中腰になる。
 しかしその時もう文殊の手は外に出ていて濡れてもいない。終始表情の変わらぬ 菩薩の視線の先には、手の平に乗った暗光の珠があった。悟浄は驚きの余り心臓が止まりそうになりながらも、反射的に身をこごめ両手で胸を抱えっぱなし。
「こ、怖かった……」
 菩薩はしかし、珠を見たまま。にこにこすると、ポンポンと手の平で跳ねさせ遊んでいる。やがて飽きたのか、ゆっくり飛ばすと、珠はすっと消えていった。悟浄はどうにか動悸も収まると、何となく体内がすっきりとし晴れ晴れとしているのを感じた。その時悟浄は先程のが自分の中に溜まった陰気だったのだと気付いた。
「さて悟浄、私はお前に真如の理を教えてはおらぬ……」
 文殊は振り返ると、両の手の平で悟浄の顔を挟んだ。
「可愛い悟浄。その悩みはいずれ再発するだろうて。まあ後ろめたいと思わずとことんまで突き詰めて考えるがよい。封じてはならぬ 。風に晒して火に干し、その姿をあるがままに受け止めれば道も開けよう。また会う日まで根元を悟るがよい。素晴らしい修行の種だよ。とりあえずお前には……」
 文殊は額に指を当てると考え込んでしまった。
「やはりこれしかないだろう。……いざという時の呪文だよ」
 そう言うと菩薩は心が騒いだ時のための真言と印を、そして彼の身の上に何事か起こった時のために、とある真言を伝授した。長いその真言を、悟浄は暫く練習してどうにか覚えた。
「これはなんという真言なんです」
「それは言わないでおこう。私も見守っているからね。疎かにしないように。いいね。むやみと念じてはいけないよ」
「さすがは密教の重鎮、色々と術を知ってるね」
 悟空があきれたように言った。
「お前はもう悟浄を連れて帰れ」
 悟空は悟浄が薄い紗一枚なのに改めてぎょっとし、……それは全裸よりなまめかしいものである。服の入った風呂敷包みを渡した。
「あっ、おれの服?」
「お前、誰もいないからって、裸で泳いだりするなよ」
 悟浄もかっとなると、
「そんなことするもんか、」
 そそくさと服を着てしまうと悟浄は熱心に文殊に礼をした。悟空は礼もそこそこに悟浄を引っ張った。水が大分溜まってきたからである。菩薩は洞門の前まで送ってきた。
「全くお前たちの法名は絶妙だよ。観世音も味なやつ。悟空は大智、空を悟り、悟能は己が、人が能(できること、せねばならないこと)を悟る。あまり精進してはおらぬ ようだが、やつに必要なのは全く能を悟ることだ。そして悟浄、お前は何が浄いことなのかを知りなさい」
 悟浄は改めて礼を述べる。文殊は笑った。
「どういたしまして。私もごちそうさま」
 悟浄は体中からぼっと火が出るように熱くなると、
「菩薩……!」
 文殊は二人が洞門を出ると真言を念じ全ての物を消し去った。仮宅は消え岩と水草のある河底になった。
 地上に戻ると空はほんの少しだけ明るく、夜明け前の様相を呈していた。八戒はぐうぐう高いびきで寝ていた。二人も疲れ切っており取りあえず眠ることにした。その前に悟空はあの紙片を悟浄に見せた。悟浄は何度か読み直すと目を閉じた。
「兄貴…、おれは確かに大層な悩みを抱えている…。でも、おれは、絶対おれからは話すことはないと思う。話さないからといって、信用してないと誤解はしてほしくないんだ。ばれたら…、ばれたら仕方ないと思う。しかしおれからは話さない。それだけは理解してくれ」
「でも、おれはお前を助けることが出来るんだろ。菩薩も言っていた」
「うん……。兄貴、今日は助けに来てくれてありがとう」
「しょうがない、兄弟だからな」
 悟空は照れ笑いを浮かべると、さっさと横になった。悟浄も横になるとすぐに眠りに落ちた。
 畢竟彼らはいかにして解決を得ることが出来るでありましょうか。続きは次回にて。

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こうやって読み直すとワケのワカンナイ話だなあ……誇大妄想狂ですか私は。馴れないことはやらんがえーっちゆうことですな。無い頭をひねってどうにか活劇をひねり出したものの、最中に能力の限界を振り切り私壊れちゃったみたいです。しかもこの話がこの後の「起」に当たるんだから、お粗末、お粗末。

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