第一回(一)

性火宅に在れば水宅に沈み
心猿壺に入りて邪淫を破る

 さて一行は隠霧山折岳連環洞の南山大王なる豹の精に悩まされ、最大の解散の危機を迎え、にせの三蔵の首にいらぬ 涙まで流させられたのであるが、信心が功を奏したか、無事妖怪を平らげ、西天の道へ着くことができた。
 もう何度もの寒暑を過ごし、天竺国は目の前であった。悟浄は、長いことよく我慢と自制を行って来たが、天竺を前にして、心の揺らぐのを感じていた。果たして自分はこんなことで、正果が得られるのか、と。
 悟浄は大体八戒と話すことが多い。というか話に付き合わされることが多い。普段でも悟空は八戒をバカにするので、八戒は下らない世間話は兄弟子にはしないことにしている。それに結局は下界育ちの世間知らずな弼馬温とバカにしているので、知的世間話は出来ないと信じてる。そして師父も下界育ちで頭が硬い。必然同族意識もあって悟浄とおしゃべりとなるのだった。
 話の内容は天界のうわさ話から下界の食べ物や風俗まで幅広い。ただ広いだけで浅いのも特徴だった。
 今日も今日とて悟空にやり込められた八戒は、悟浄相手にぶつぶつこぼしていた。
「あの弼馬温め、いつもあほうだ、がらくただのと人をばかにしやがって、自分はいつも正しいと思ってやがる。どうしかにしてやり込めてやりてぇなぁ。何かないかな。なあ悟浄」
 悟浄は毎度のことにやれやれと嘆息しつつも、
「そんなの仕方ないよ。本当の事なんだから。二哥は人を恨む前に自分の性格をどうにかせにゃならんよ」
と意見した。すると八戒は身を乗り出し、
「お、お前もあの野郎の肩を持つ気かよ。お前だってさんざっぱら悪態つかれて頭ごなしに怒鳴られて、腹立たねえのかよ。おれ達何度あの猴に殺されかけたか、覚えてないわけじゃあるまい」
 悟浄は言葉に詰まった。八戒は尚も続ける。
「いつだったか、おれは本当に殺されると思ったぜ。あいつ真剣に怒ってたもんな。おれ達なんぞあの重たい葬式棒の一発でお陀仏だぜ。まったくあの猴ときたら師父のこととなると見境がないからな」
「それは地涌夫人の難(第八十一回)の時のことだろ」
「でもいつものことさ。あいつちょっといきすぎだと思わないか」
「いきすぎって?」
「あの弼馬温の師父に対する入れ込みようさ。ありゃ尋常じゃない。…ありゃあ、懸想しているとみた」
 悟浄はギョッとした。自分にもそう感ぜられて仕方がなかったが、そう見えるのは自分の嫉妬のなせる技だと否定してきた。
 が、八戒にまでそう見えるなら本物だと悟浄はがっかりした。
「まさか。尊敬しているだけだよ。おれだって敬愛しているぜ」
「バッカおめえありゃ単に愛してるだぜ。お前が尊敬してるのは判るぜ。節度があるからな。だけどあれには節度っつーもんがねえ。度が過ぎる。そう思わねえか?」
「それは彼の性格だろう」
悟浄は突っ込んでみる。
「そうだあれは野育ちの礼儀知らずの猴だからな…しかしおれは師父も悟空に惚れてるとみた。いやにひいきするだろ」
「二哥。いい加減にしろよ。そんなこと聞いたら兄貴は本当に火がついたように怒るぞ。…兄貴はおれたちをないがしろにはしない。いつだって助けてくれたじゃないか。おかしなこと言うなよ」
「悟浄。お前こそ頭がおかしいぞ。今までのことを全て忘れた訳じゃあるまい。どうしてそんなことが言えるんだ。お人好しも大概にしろよ」
「二哥。あんたは人と人の繋がりをそういう風にしか見られないんだな…俗物め。何だかんだいって、妬いてるんだろう」
 八戒はぎょっとして否定した。
「何でおれが」
「自分が惚れてるから他人もそう見えて妬けるのさ。図星だろう」
「冗談じゃない」
 八戒はむきになって否定した。その時悟浄がすっくと立ち上がったので、八戒はあわてて猫なで声を出した。
「そ、そう怒るなよ。確かに悪かったよ、下世話だったよ…でもお前なら判ってくれると思ったんだがなあ、…」
「……」
 悟浄は暫く八戒をじっと見下ろしていたが、プイとそっぽを向くと踵を返した。
 ――判ってるよ。確かにね。でも、そんなこと、口に出して認めたら終わりじゃないか。
 それは斎のあとのひとときの出来事であったのだが、休憩が終わり出立しても二人は、というか悟浄は絶交を決め込み八戒を無視した。
 そのまま夕になり、その夜は林の中の荒れた廃寺でやすむことになった。
 一番奥に三蔵、そして悟空、八戒、悟浄の順に雑魚寝とあいなった。皆疲れですぐに高いびきとなったがひとり悟浄だけは昼間のことでもんもんとして寝付けず、彼は思いあまって隣でひときわ高いいびきをかいている八戒の腕をつねった。八戒は目をつむったまま手を払い、
「うるさいな。寝かせてくれよ。又おいらをこき使うつもりか。ここは妖怪も出ねえしいいとこだのに、何で起こす」
 つねったのは悟空と思いそう言うとまたムニャムニャと寝入ろうとする。
 悟浄は長い爪でもってつまむようにつねった。
「痛ッ!」
「しっ、」
 悟浄は八戒の長い口を掴んで押さえると、指を自分の口のところに当てた。
 八戒もやっと目を覚ます。
「なんだ、お前か…。こんな夜更けに何の用だよ」
 八戒はわざとらしくも大あくびをした。
「昼間の話だよ」
「昼間の話ィ?あんなのまだ気にしてたのかどうでもいいじゃないか明日にしろよ」
「明日になったら忘れそうなんだ、」
「じゃ忘れたらいいじゃないか」
 ごそごそ向こうを向き寝入ろうとする八戒に悟浄は後ろからぴったりくっつくと耳元に口を寄せてささやいた。
「八戒ッ、お前ってやつはほんといい加減だな、兄貴になじられても仕方ないよ、お前は。あほうだ、がらくただうすのろだと一生言われてろよ」
「どういう意味だ」
 八戒は腹這いになると頭をもたげた。悟浄は元の位置に戻り自分も腹這いになると、
「二哥だけじゃないけどさ…兄貴がおれらに構わないのは、おれたちが守る対象じゃないからさ…今更だけど。だからおれたちが師父を妖魔から防ぎきれなきゃぶち切れるし、殺されてもしょうがないってわけ…」
「何だそんなことか。くどいよ」
「お前判ってるんならなぜ善処しないんだ。兄貴は恨むべき相手じゃない。二哥がすぐなまけぐせを出すからなぶられるんだろう」
「お前はどうなんだよ」
「少なくともおれは兄貴のなぐさみものにはなっていない」
「お前の言いたいことってのは、それだけか」
「兄貴は、偉いよ。おれ達の不始末もちゃんと付けてくれる。気性は荒っぽいが、情に厚い、最高の男だろ」
「そんなこと兄貴に面と向かって言やいいだろ。おやすみ」
 八戒は再びあっちを向いて横になってしまった。悟浄は今一度身を寄せ耳元でささやき続けた。
「二哥。おれは二哥も好きだからこうやって言ってるんだぜ?…あんなはなかなか素直だし、気のいいやつだ。なのにちっとも色欲食欲、その他諸々、断ち切ろうとしない。奥底にあるのはねじけ根性で、すぐひがむ」
 悟浄は八戒のうちわのような耳をつまみ、続けた。
「腹が立つだろ。おれはそれだけの男じゃないって、思ってるだろ。お前はどうなんだと言われりゃ、返す言葉もないさ…。でもおれは、二哥に思い違いをして欲しくなくて…」
「あ~もううるさいなあ。一体おれにどうしろってんだよ」
「もっと誇りを持って精進しろよ。せっかくいいもん持ってても、磨かなきゃ、ものになんないぞ。お前そんなことで本当に正果 が得られると思ってんのかよ。もう天竺は目の前だぞ」
「西天へ着きゃ否が応でも得られるだろ」
「こののんき者。おれが言ってるのは、あんたの心構えだろ。お前そんな心持ちでさ…、仏になんて、なりたいか?」
「お前えらく熱くなってるな。お前はどうなんだ」
「おれは…いやだよ。ふっきれない。そういうことが一つだけある」
 八戒ははっはっと笑い出した。
「結局言いたいことは、それか。まぁ待ちな。今日は本当に眠くて頭が回らねえから、明日ゆっくりと話そうや…お前、離れろよ」
 悟浄は八戒が余りにも楽天的で自分と違いすぎ、なんだか余計なおせっかいのような気がしてきたので、もう話をする気を失ってしまった。
「もういいよ。あんたに悩みはてんでなさそうだ。やっぱりおれのお門違いだった」
離れて行こうとする悟浄の手首を八戒が掴んだ。
「バカ。おれに出来ることがあったら何なりと言えよ。兄弟だろ。力になるから。…お前みたいに人の気持ちを判ってやれる自信はないけどさ…心配してくれて、ありがとう」
「……。八戒」
 八戒は握る手に力を込めた。そして離すとすぐに寝息を立ててしまった。
「……」
 呆気にとられた悟浄は暫くそのままじっとしていたが、だんだん更に気もそぞろになり、立ち上がり廃寺の外へ出て行った。
 外は耿々と月が光っており、全ての物を明るく浮き上がらせていた。彼は暫く朽ちかけた土壁に背をもたせかけ、さっき八戒に掴まれた手首を自分で握ってみた。肉厚な八戒の力のこもった暖かい感触が蘇る。自分は一体何を言うつもりだったのだろう、と自問する。勢いに任せてあんなところまで口走ってしまったが、肝腎のところは言えるはずもない。まさか八戒に悟空のことが好きだと告白したところで、どうなるものでもない。八戒が優しく力になると言ってくれたところで、何をどうしてもらえるというのか。しかも自分はかなり自制のきかないやばい所まで来てしまっていることも彼は自覚してしまったのだった。予想外に八戒に腕を掴まれた時、我知らず彼は身体を熱くし、くらくらと八戒に気持ちが傾くのを感じずにはいられなかった。もしこれ以上優しくされたら、彼は八戒に身を任せてしまいたくなるに違いない。
 泣きたい気持ちでそうしていたが、壁を離れると、明るい境内に歩を進め月を仰ぎ北斗を踏み始めた。更に印を結び咒をとなえ、右手の指をかみ切り、左の手のひらに符を書き付けた。
「北斗なぞ踏んで、一体何を呼び出そうというんだ。霊気を覚り、いらぬものまで呼び起こすぞ」
 悟浄ははっとして左手を強く握りしめた。振り向くと、さっきまで自分がいた場所に、悟空が腕組みをしてもたれていた。
「別に…。ただのおまじないだよ」
 努めて平静を装いながら悟浄は答えた。
「符は神鬼を使役するもの、その勅令は天冥に届く」
「ただの気休めだよ。それに、願をかけても叶うかどうか、判らんし。ましてや誰かなんて…」
「バカだな。何人間みたいなこと言ってんだよ。俗世に浸りすぎて、忘れてんだな…五行の因縁の外に出て、ましてや天界にいたお前が、符を書いて願をかけるなんてのは、直接天界へ言って本人に頼むのとおんなじことだろうが。凡人やその辺の道士なんてのは、天上界に行けないから一手間かけて符牒を使うんだろうが。しかもお前の方術が、凡人みたく失敗する訳がないだろう。気休め程度で済むわけないぞ。“気”が強いんだから」
「じゃあ、どうすればいいと言うんだ」
「お経でも唱えたら?師父みたいにさ。気休めの特効薬は、もう自分の中にしかないんだぜ」
「……そうかも知らんが、実際のところ、おれは何においても道士のやることしか出来ないんだ」
 悟空はくすくすと笑った。
「まあその点はおれも同じだ。仏門の割には、やることなすこと、道士の親分みたいなもんだ。…何にしても、むやみやたらと、術を施すのはやめろよ。一体お前、どうしたんだよ」
「別に……」
「別にって訳があるか。今日に限らずお前変だぞ。おれが知らないとでも思ってるのか。今日も一睡もしてないだろうが」
 悟浄はぎくっとした。
「知ってたのか…?」
「何か悩みがあるんだろ」
 悟浄はさっと全身がそそけだち、冷や汗が出るのを感じた。
「別に大したことじゃないんだ。もう遅いし、寝よう」
 悟浄は目線を外しながら、悟空の横をすり抜けて行こうとした。
「待てよ、」
 その手を悟空が掴む。
「もう明日に差し支えるから」
「……。お前、眠れるのか」
「術を使えば、造作もない」
 そう言って印を切ろうとしたが、手が震えて咒がかけられない。
 悟空は悟浄の額に人差し指と中指を当てると、咒文を念じた。と悟浄はくらくらとくずおれ、悟空に抱き留められた。悟浄は昏睡状態に陥っていた。
「……」
 そんな悟浄を渋い顔で見ながら、床に横たえると、悟空も元の場所へ横になった。


「この人間世界は苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。怨みあるものと会わなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。まことに、執着を離れない真理はすべて苦しみである。これを苦しみの真理、『苦諦』という」
 翌日、道中の道すがら、三蔵は馬上で説いた。
「なる程、妖怪に出会うのも仕方のないことなんですね」
 八戒が言う。
「この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。その煩悩をつきつめていけば、生まれつき備わっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死をさえ願うようになる。
これを苦しみの原因、『実諦』という。
この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、全ての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。これを苦しみを滅ぼす真理、『滅諦』という。
この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道『八正道』を修めなければならない。八つの正しい道というのは、正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一である。これらの八つは欲望を滅すための正しい道の真理『道諦』といわれる。
これらの真理を人はしっかりと身に付けなければならない。というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとする者は、誰でも煩悩を断ち切らねばならないからである。煩悩と苦しみの無くなった境地は、悟りによってのみ到達し得る。悟りはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる」
 悟空はちらちらと脇道の崖に生い茂る雑草に目を走らせている。
 悟浄はその言葉を鉛を飲んだような気分で聞いている。
「全ての執着を離れるなんて簡単に言いますけどね、おいしいもんがありゃ食いたいし、綺麗な小姐がいれば心動かす、一体どうしてそんな心の動きを止められましょう」
 あきれたように八戒が言った。
「我慢すればいいんだよ。あほうめ」
 悟空が何を見つけたのか何やら取りながら言った。
「我慢は苦しみだよ。苦しみを滅すために苦しまなくちゃならないのか?」
「悟能(観世音が付けた戒名。八戒のこと)は即物的な男ゆえ、具体策を説こう。……
ある所に、淫楽に荒んだ王がいた。その妃たちが一人の若い出家を取り巻いているのを見た王は、彼にいろいろ嫌がらせをしたが、彼はじっと耐えていた。その姿を見、王は自分の狂暴を恥じ、罪をわび許しを乞うた」
「前置きは結構です。スパーッと言って下さい」
「……王は訊ねた。
『大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことが出来るのであろうか。』
『大王よ、仏は私たちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。年上の婦人を母と見よ。中程の婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。この教えによって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。』」
「そんなもんかねえ、でも師父、」
「『大徳よ、しかし人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。仏の弟子たちはどのようして欲を抑えることができるのであろうか。』」
 異見を述べようとする八戒をさえぎり、三蔵は一気にそこまでまくし立てた。
「『大王よ、世尊は、人の身体が色々の汚れ、血・膿・汗・脂など、さまざまの汚れに満ちていることを観よと教えられた。このように見ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことが出来るのである。』」
「そりゃいい、」
 悟空が笑い出した。
「まだ続きがあるのだ。……
『大徳よ、身体を鍛え、心を練り、智恵を磨いた仏弟子たちには容易であるかもしれない。しかし、いかに仏の弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。汚れたものを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。』
『大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい身体によって物に触れるとき、よく五官の戸口を守れと教えられる。この教えによって、若い者でも、心身を清らかに保つことができるのである。』」
 三蔵は口を閉じた。
「でも結局はそれなんですね」
 八戒。
「大事なのは、最後の一節なのだ」
「それで師父は女性に心動かされない訳ですか?」
「私はもとより女性にそういう興味は湧かないのだ」
「やっぱり師父は女性より男性の方が……」
「黙らっしゃい!お前は私の何を見てきたのだ。そんな下世話な戯れ言を言うと、悟空にぶってもらうぞ」
 悟空は八戒を見るとにやにやした。八戒はしきりに許しを乞う。
「でも師父、そんなに人を愛することは悪いことでしょうか」
 今まで黙っていた悟浄が問う。
「愛にも色々ある。慈愛、敬愛、…しかし愛に囚われると、愛は愛欲を生む。愛欲は煩悩の王、様々の煩悩がこれに付き従う。愛欲は煩悩の芽をふく湿地、様々な煩悩を生ずる。愛欲は善を食う悪鬼、あらゆる善を滅ぼす。
愛欲は華に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻き付き、人の心の中の善の汁を吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌、人はこれにつられて、悪魔の道に沈む」
「………」
 悟浄は暗い淵を覗いたような顔をした。
「人間の欲には果てしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、一向に渇きが止まらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。人はその欲を満足させようとするけれど、不満が募って苛立つだけである。人は欲を決して満足させることが出来ない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる」
 もはや悟浄の顔は蒼白であったが、元々青いので分からない。
 悟空はじっとその顔を伺っていた。
「師父、迷いや悩みはどうです」
 また雑草に目を落としながら悟空が言う。
「迷いがあるから悟りというのであって、迷いがなくなれば悟りもなくなる。迷いを離れて悟りはなく、悟りを離れて迷いはない」
 三蔵は朗々と続ける。
「だから、さとりのあるのはなお妨げとなる。闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすことと照らすものと、共になくなってしまうのである。
まことに、道を修めるものは、悟って悟りにとどまらない。悟りのあるのはなお迷いだからである。
この境地に至れば、全ては、迷いのままに悟りであり、闇のままに光である。全ての煩悩がそのまま悟りであるところまで、悟りきらなければならない」
「悟りが迷いで迷いが悟り、どうしろっていうんですか。さっぱり分かりません」
 八戒が途方にくれた声を出した。悟空は悟浄と目を合わすとにっこりと笑った。
「言葉の通りだ。よく誦しこの境地を得れば正覚も開けよう」
「でもおいらは、正覚なんかより、今はおいしいお斎を食べたいなあ」
「煩悩のかたまりめ」
 悟空があきれ声で言う。
「そろそろ頃合いだ。あの辺で食べよう」
 三蔵が鞭で前方を指した。小さな沢が流れていた。
 食事の支度が済むと、悟空は八戒を水くみにやらせた。
 三蔵が潔斎経を済ませるより早く八戒が大きな口で飯をほおばると、二、三度かみ砕き、渋面 を作り突如ぶっと噴き出した。
「うっくっくっくっ、」
 悟空が笑いをかみ殺す。八戒は顔を凄い形相でしかめると、ぺっぺっと唾を吐き、自分で汲んできた水を飲み干しそうな勢いである。
「八戒、食べ物を粗末にしてはいけない」
 三蔵も顔をしかめる。
「誰だいたずらしたやつは。言わんでも分かっとる」
「お前が潔斎経も待たずに食うからさ。お前の飯だけ邪悪に満ちていたんだろ」
 悟空は平然と答える。
「いいやお前が何か入れたんだ。おれには分かっとる」
「お前がいやしすぎるからさ。親切に説教してやってんのに、怒られる道理もあるまいに」
「説教?」
 悟浄が不思議そうに問う。
「こういう風に、見た途端にパクンといっちまうやつは、いやしさと無警戒が徒となって、いつか悪いもんにあたったり、妖怪のしかけた餌にひっかかって、死んじまうぞってね」
 悟空は八戒を指さし言う。顔は隠しきれない笑で楽しそう。
「悟空、一体何を入れたのだ」
 三蔵が問うと、
「苦虫です」
と答える。
「苦虫といえど、一個の生命ある体、殺生は断じてなりません」
「師父、この猴めをこらしめて下さい」
 八戒、涙を流して訴える。
「悟空、八戒をいたぶるのはやめなさい」
「はぁい」
 悟空生返事。三蔵は一息ついて、飯をパクリと一口口に運んだ。
「そんな、兄貴はちっとも反省してないじゃないですか、師父、あれ、あれ、」
 と八戒はしきりに頭を指さす。悟空の頭に載っかっている緊箍児を緊箍呪でもって締め上げろと催促しているのだった。
「なんだと?おれに文句があるなら、てめえがかかってこい」
 悟空が凄むと、八戒の大きな体はしゅんとしぼんだ。
「くそ、いつかぎゃふんと言わせてやるからな」
 口の中でぼそぼそと恨み言を言う八戒に、悟浄は哀れをもよおし、空になった八戒の茶碗に自分の飯を半分ほど入れた。
「八戒、これ食えよ」
「すまねえ」
 八戒泣きながらも礼を言うと、笑ってた悟空の顔がすっと真顔に戻る。
「悟浄、そんなに気を遣うことはないぞ。食い量が違うんだから」
「いいんだ余り食欲ないから」
「食わず眠らずで体力を落としても知らないぞ。いつでも助けてもらえると思うなよ。落伍したらそれきりだ」
 悟浄はっとしたがすぐむっとし、
「二哥、お礼は今日の荷物持ちでいいから」
と悟空を無視した。
 悟空も無視されると、元来短気なのでかっとなり、黙々と食事した。
 ――おれの気遣いが分からんやつめ。こんなに親身になってやってるのに、無視をするとはどういう了見だ。もうこんなやつ気にかけるのはやめだ、くそ。
「悟空、さっきのはどういう意味だ」
 三蔵が訊ねる。
「別に」
「悟浄、何かあって眠れないのか?」
「いいえ、寝てます。ご安心を」
 斎も終わりまた歩いていると、悟浄に八戒がささやいた。
「悟浄、さっきはおれのせいで、えらいことになったな。元はと言えば悪いのはやつだが、いいのか、お前」
「いいんだ。……はっきり言われて、なんかすっきりした」
「何言ってんだよお前。すっきりしてどうするんだ。あいつに助けてもらわなきゃ、死刑を宣告されたも同じだぞ。これからまだ先はあるんだぜ?」
「いいんだよ……とにかく白黒はっきりすれば。とにかくもうこれで昨天(きのう)以来の問答は終わりだ」
「昨天以来の問答?ああ……」
 八戒は納得できぬままうなずいた。
 さてその夜も人家に辿り着けず野宿となった。辺りは草木もまばらな砂地で、すぐ側に河が控えていた。しかしその河は進行方向とは平行だったので、行程に問題はなかった。
「……」
 悟浄は輾転反側していたがなかなか寝付かれず、心中益々乱れる思いがしたのでそっと立つと屏風のような岩を越えて河原へ出た。
 河は、昨夜より少し痩せた下弦の月の光を受け、きらきらと輝いていた。
 暫く河面を見ていた悟浄は、きらめく河面に妖気を感じなかったので、一つ息を吸い込むと思い切って河の中へ飛び込んだ。
 暗い河の水は、優しく悟浄にからみつき彼にえもいわれぬ開放感を与えた。水の冷気が彼の心と身体の火照りを鎮めてくれる。元は流沙河に堕とされた水怪、正に水を得た何とやらで、彼は夜行性の魚が少々いるだけの水中を伸び伸びと泳いでいた。
 さて悟空は、悟浄がまたしてもふらふらとどこかへ行ったのを知っていたが、まだ腹を立てていたので知らんぷりを決め込んでいた。
 しかしその夜彼はなかなか帰ってこなかった。
 四更(午前二時)を過ぎた頃、悟空はついに我慢がならずがばっと起きると傍らの八戒をゆさぶった。
「八戒、八戒、」
「うーんうるさいなあ。もう問答はやめにしたんだろう……?」
 悟空は八戒のでかい耳をつまみ上げた。
「起きろ。孫さんが棒で殴るぞ」
 八戒あわてて目をぱちくりさせると、悟空がぐっと睨んで腕組みをしていた。
「兄貴。おれ何か悪いことしたか?」
「お前じゃない。悟浄だ」
「へ?悟浄?」
 八戒も起き直ってきょろきょろ見回すと、悟浄の姿がない。
「小便にでも行ったんじゃねえか?」
「小便が二刻以上もかかってたまるか。来い」
 悟空は立ち上がると先に立って歩き出した。岩を登る。
「兄貴、あいつは助けないんじゃなかったのか?」
「………」
 悟空は答えない。河原まで来ると、悟浄の着ていた着物がきれいに畳んで置いてあり、その上にひとひらの紙が載っていた。
 八戒それを見ると、
「兄貴、悟浄は追い剥ぎにあって殺されちまったんだなあ。やつらおっつけあれを取りに戻ってくるに違いない」
と指さし言う。
「あほう。下らんこと言うな。……あいつ、ついにいらんものを呼び寄せたな」
 悟空がそれを拾うと、それにはこう書いてあった。

   火宅之人想水宅     火宅の人は水宅を想い
   我持蓮華説真如     我蓮華持て真如を説く

「いらんもの?やつはどこに?」
 悟空はそれを八戒に渡した。
「水の中だ」
 さて悟浄は河底の砂地で岩に凭れ水流にゆらゆらゆれる水草などを見ながら物思いに耽っていたが、心地よい水を抜けて地上に戻る気色がなかなか起こらなかった。
 そうして半刻ほどいると、不意に岩場の影から一条の金光がほとばしり悟浄を覆った。
 美しい青年の姿をしたそれは、にやりと笑うと悟浄に禁呪をかけた。不意のことに術にかかって動けない悟浄を連れてその妖精は岩場の陰の水宅に引き上げていった。

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えーと、三蔵の説教ですが、これからも時々出ますので、読むとタルイと思うので、飛ばしてもらってよいです。まぁおヒマがあります方は、読んでいただきますと、もれなく眠くなるかもしれませんが、どれだけ淫戒が侵されざるタブーかしつこく訴えますので、イケナイ感が盛り上がることもあるやもよ。
後半は若干(??)エロなんでご注意ください

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