第四十三回 黒水河変(一)

 黒水河という河にさしかかったときのことだった。
 どうやって渡ったものかと底の見えない真っ黒い河の水を覗いていると、三蔵が水の中の妖怪にさらわれてしまった。
 三蔵の体は清らかで徳が高いので、食べると不老不死になる。それで道中の、どの妖怪も手ぐすねひいて待っているのだが、悟空たちの力で守られてきた。
 しかしその悟空にも不得手はあって、それが水中の戦いなのだった。
 悟浄は水中で暮らしていたし、八戒も天界では天の河の水軍を率いていた天蓬元帥なので、水の中はお手の物。二人は戦いを挑みに水中へ潜っていった。
 ところが、現れた妖怪は強く、節のついた鉄の鞭を巧みに操り、二人を相手に対等に戦う。八戒までが囚われの身となった段階で、妖怪は悟浄の相手を切り上げて洞府の門をぴしゃりと閉め、料理へと向かう。それから後は幾ら悟浄が憎まれ口をたたこうと、妖怪はいっかな出てこない。中から漏れる声で、三蔵が体を洗ってまな板に載せられようとしているのを知った悟浄は、絶体絶命と悟空に助けを求めに水上へ上がったのだった。

 ただ一人、陸上に残った悟空は、もんもんと気を病みながら水面へ目を向けていた。
 師父は無事だろうか。出来ることなら水中へ潜っていって、けしからん妖怪を殴り殺してやりたい。この、おれの手で。陸上だったら暴れまくってやるのにと、もどかしさを感じながら悟空は嫌いな待つだけを強いられていた。
 体も怒りと焦りでわななき、全身の毛が逆立っている。
 と、目の前の真っ黒い河がぶくぶくと盛り上がり、ざばっと噴火山のように割れたかと思うと、頭がかすかに見えた。
 悟空は飛び出さんばかりに目をひん剥いて、逸る心で鉄棒を取り出し構えた。
「妖怪野郎、来い!」
 と、降参するかのように、やる気を止めるかのように青黒い片手がひらひらした。その手は弟分、悟浄のものだった。
「兄貴、おれだ、間違えんでくれよ」
 その声を聞き、肩に入っていた力が抜けるのを感じた悟空は、水中から頭だけを出して上目遣いに見ている悟浄に片手を伸べた。
 悟浄は一瞬躊躇したが、片手を伸ばすと、ときめきを感じる暇もあらばこそ、勢いよく簡単に引き上げられた。
「どうだ?八戒はどうしたんだ?」
「あ、兄貴、面目ない、すっかり一人に振り回されたよ。八戒も捕まっちまった」
「何ィ?ま、あんなヤツはどうでもいいか」
「兄貴!」
「冗談だよ。で、そんなに凄い奴なのか」
 悟浄は頷くと、水中での戦いの様子をつぶさに語り始めた。悟空は、強いと聞いて戦ってみたいとうずうずしながら話を聞いていた。
 しかし、もうまな板に載せられかけていたと聞くと、
「……では、もう洗おうとしていたのか」
と神妙に言った。
「うん」
「それがどの位前の話だ」
「もうかれこれ一刻は前になる」
 悟浄は頭の中でとつおいつ計算して答えた。
 食材を洗い始めてから一刻(約15分)。二人は暗い淵を覗き込むように互いの顔を見合わせた。見つめ合う二人に沈黙が降りてくる。
 悟空はいやな想像を振り切るようにぶるっと身震いすると、口を開いた。
「その妖精は一体何の精だろう」
「さあ……あの様子からすると、鼈(すっぽん)かだ竜だろう。……」
 また二人に沈黙が落ちる。やがて悟空、
「まな板に載せられてたんじゃあ、今頃なますにされてるかも知んねえな」
 その声は気の抜けたような調子で、悟浄には気に障った。
「そんな、兄貴なら助けられるだろう?」
 すがる瞳で悟空を見上げる。
「いくらおれでも食われちまってたらお手上げだ。この旅も終わりかな……ここで解散しようか」
 悟浄は信じていた兄弟子の余りにも不謹慎な言葉に声をわななかせた。
「兄貴、本気で言ってるのか、」
 悟空の声はそんな悟浄のいきどおりを冷ますかのようにあくまで落ち着いていた。そして諭すように語り始めた。
「しかし悟浄よ、おれは半分本気だぜ。ひょっとしたら今頃もうとっくに手遅れだ。そん時のこと、ちょっとは覚悟しとかなきゃ。そん時はここで解散だな」
「そしてまた一からやり直しなのか?俺達はやっとここまで来たのに。今更どこへ帰れっていうんだ」
「もう取経はやめだ。こんな苦労して西天まで行って何になるよ。な、もうおれたちは自由の身なんだぜ」
 悟空は悟浄の肩を叩いた。
「おれは花果山へ帰る。お前は流沙河へ帰ればいいだろう」
 悟浄はこれを聞き肩にかかる悟空の手を払いのけると激昂した。
「無責任な……よくそんな事が言えるな。そりゃ兄貴は五行山に押し潰されてただけで今は自由の身、地上に故郷もあるからいいだろうぜ。でもおれは流沙河が故郷なわけじゃない、流刑地だ。頼るところもない。赦された訳ではないから天にも帰れず人にもなれず、この異様な姿で人目を避けて隠者のように生きろってのか?いっそ殺してくれ!その……、あんたの腕で」
 既にこの頃どうしようもない思いを抱えていた悟浄は、激情に任せて思いを吐露した。今更悟空のいない所で生きていくなど考えられなかった。
 それはなんと自由で、しかしなんと味気ない、暗い心細い日々であろうか。
 ――ああ、おれはこんなにも離れられない。
「さあさあ、殺してくれ。本望だから。どうせ死ぬならあんたの手に掛かって死にたい。出来たら素手で首を絞めるか、抱き潰して殺してくれ。おれは喜んで手に掛かろう」
 悟浄は目を閉じて上を向き、背筋を伸ばして待っている。悟空はいつにない悟浄の熱さに触れてとまどった。
「ちょっ、ちょっと待てよ、おれは何もきれいさっぱり縁を切ろうと思ってこんな事を言い出した訳ではないんだ。ここにいるのがお前だから、……」
 どうして悟浄がここに居るから解散もいいかと思えたのか、自分でもよく分からないながらあながち間違ってはいないことだけは確信を持って悟空は続けた。
「おれにお前は殺せないよ。どうしてそんなおれを苦しめるような事を言う。……ならおれと一緒に水簾洞へ来ないか?」
 自分を縛る法の枷から解き放たれて二人、自由に…いや悟空は水簾洞の王だから部下が沢山いる。決して二人きりではないことは分かっているけれど……悟浄は不謹慎ながらも浮かれずにはいられなかった。
「しかし、……」
 嬉しいながらも悟浄はうつむき渋ってみせる。
「悟浄?どうなんだ。嫌なのか?」
「兄貴……それは、その……」
 悟空はうつむいたままの悟浄の肩を掴む。はっとして悟浄が上を見上げると、悟空が顔を覗き込んでいる。無言で見つめ合う二人。
 悟浄は顔を熱くして見つめ返しながらも、答えを渋っていると、風が揺れるのを感じた。
 というより、それは彼らにとって空気が軋んだといった方がいい。
 悟空がすっかり忘れていたものの存在に気がついて上を見上げると、そこにはばつの悪そうな顔をした日直の日値功曹が雲を降ろして三尺と離れない所に浮いていた。
 見られていたと突然恥ずかしくなった悟空は照れ隠しに、
「こら、下っ端。唐僧のお守りもせず、何覗きやってんだ。職務怠慢で訴えてやる」
 とこぶしに熱い息を吹きかけた。
「いや、大聖、お気になさらず、おとがめなく、」
 頭をかきかき日直の神が答える。
「どあほう。覗かれて気にせずにいれるやつがどこにいる……頭を出せ、ぶったたいてやる!」
「兄貴、そんなに当たっちゃ可哀想だよ」
「そうですよ大聖。そんな事出来るんですか?身を滅ぼしますよ?」
「口ごたえしようってのか?」
 悟空は鉄棒をひねり出すと風に一振り、孟宗竹くらいの太さににして構える。
「兄貴、……痛、」
 悟空はすがる悟浄を軽くはたいた。しかしはたかれた悟浄にとっては軽くではない。
 緊張高まる中、
「もし」
と声をかけ、水を差すようによぼよぼとした年寄神がまろび出た。
 服はぼろぼろでつぎはぎだらけ、体もがりがりに痩せていて哀れを誘う。
「大聖、この河の妖精について、一言お知らせがございます」
「何だ、お前は」
 悟空は鉄棒を持って闘気をはらんだまま貧乏神に目を向けた。
「私はこの河の主ですが、奴が波に乗って押し寄せてきた時追い出されました。そして時々徴発されてはこき使われ、こんなに痩せ細ってしまいました。どうかあいつを追っ払ってください」
「……とはいえ、もう師父は死んでるかも知んねえし、」
「いいえ、まだ生きてございます」
「生きているだと?」
 自信たっぷりに答える竜王に、悟空は悟浄と見合った。色々早まらなくてよかったと内心思っていたかどうかは定かではない。
「お前さん、まあ話しなよ。どうしてそんな事が分かる」
 悟空は河原に座ると膝をすすめた。悟浄も傍らに寄る。
「あの妖怪は西海竜王の甥なのですが、先からその伯父を尊敬していて、先ほども竜王に招待状を出して、竜王が参ってから誕生祝として新鮮なところを屠って調理しようと申し、手紙をしたためておりました。おっつけ使いの者が手紙を届けに通るでしょう」
「何?けしからん奴だな。西海竜王も。……っておい、」
 悟空は悟浄に目線をくれた。
「西海竜王ってあいつの親父じゃなかったか」
 悟空は馬をあごでしゃくった。

 その少し前。
 黒水河神府の一室で妖怪――だ潔は筆を置くと顔を上げた。
 窓の外の暗い景色を眺めると、明るく澄んだ西海の水晶宮に思いを馳せる。
(……こんな辺鄙な禄の少ない濁流であっても伯父上のご厚意で神府の主となることが出来た。亡き父のような立派な河の竜王となることは叶わないが、兄弟でも末の方である自分にしてはしめたものだ)
 彼の父親は八水の長である「けい河」の竜王であったが、ある日とある易者がけい河での漁を生業としている漁師の求めに応じ毎日漁場を見立て、それが百発百中であるという話を聞き、このままでは河の水族が全て採り尽くされてしまうと危機感を抱き、身分を隠して易者先生に賭を持ちかけた。その賭が元で玉帝の命に背くこととなり唐の名宰相魏徴に首を刎ねられることとなった。
 そのときのことを竜王が恨み、唐の太宗を取り殺したが、魏徴の機転で太宗は冥府から戻って来ることが出来た。
 その道中の地獄で見た餓鬼共を救済する水陸大会を催すこととなり、その水陸大会の壇主に選ばれたのが玄奘であり、長安に留まり取経の者を探していた観世音の目に留まったのはまた別の話。
 失意の内に命を落としたであろう父王。しかし既にその跡は立派に継がれており、たかだか第九子のだ潔にとって父との思い出も感慨もそれほどではない。それよりも相前後して、やはり処刑により夭折したはずの従兄弟の事の方が自分にとっては青天の霹靂だった、と思い起こす。
 自分は名のあるとはいえ、河の竜王の、さらに末席に近い、決して美しいとはいえない本性を持つ子供、比して彼は偉大なる四大海の竜王の、美しい竜の三太子。沢山の者に傅かれ大切に育てられていた彼に、自分が同情を寄せる謂われはない…。
 年が近かっただけにより一層妬ましかった三太子を、このおれが哀れむ日が来るとはな。まあこの地はおれにふさわしい。このまま、お前の分もおれが生きて成り上がっていってやるよ、玉龍。
 だ潔は軽く笑い、頭を振ると埒もない思索をやめ、小者を呼び西海竜王への手紙をことづけると、宴の用意はどうするか、と気持ちを切り替え部屋を出た。

NOVEL NEXT

続きます…。しかし師匠の一大事に何いちゃこらしてるんでしょう…。とセルフつっこみ。
後半だ潔パート以外がヘタレ原文ベースなんすけど、序文あたりと被ってるなーと思いませんか?実はこっちが先だったり

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