黄金の月

その年、愛すべき我がチームはどん底だった。
中西がいて、豊田がいて、稲尾が投げ、大下という格段のスターを戴き、三原が采配をふるったあの栄光のチームはもうない。
そこにあったのは、栄光のチームの抜け殻だった。
そこに残された二人――中西と彬は、今日の試合後のミーティングを終えた後も、監督室に言葉をかわすでもなく残っていた。
デーゲームの残り香のような夕闇が、窓のそばまで忍び寄ってきていた。
彬は、机をはさんで疲れた体を監督の椅子に預けている中西を、組んだ指の間から見ていた。
その姿は、痛々しくさえ感じられた。いつもの大きく、明るく太陽のように自分の回りの物すべてを暖かく照らす力も、見るかげもないように。
事実、彼は体もがたがただった。まだ30でありながら、手首を壊してからの彼は、もう元の彼ではない。その上に、否応無く監督の重責と、チームの不振がのしかかっていて、彬は、そんな彼を見ていることがいたたまれなかった。
我知らずにため息がもれる。
「太さん」
中西は、目線だけを声の方に走らせた。
「―――。……もう、遅いから、早く帰ろうぜ。…明日も試合だし……」
すると中西は憮然とし、
「よう言うわ。どうせ夜は、おらんのやろ?お前の遅いは、朝のくせに」
「人生には緩急が必要なんだよ。自分を解放するところが、……今日みたいな試合は飲んで忘れるのが一番」
彬は目を伏せくすりと笑うと立ち上がり、中西の肩を一つポンと叩いてそのままドアに手をかけた。
「太さんも、最近やっと飲めるようになってきたから、分かるだろ…?」
彬の言葉に、中西も頷く。彼は、飲めない酒を覚えたところだった。
―――あなたは、優しすぎるんだよ…。だから、切ることが出来ずに、たくさんの荷物を、抱え過ぎているんだ。おれだったら、そんなに抱えたりはしない。……
彼はドアを開け、監督室から一歩踏み出した。夏の夕暮れ特有の、湿った生ぬるい風が身をなぶってゆく。
―――○○は、もう使わない方がいいんじゃないか……?二軍に降とすのも、気分転換になるし。このままスランプのまま一軍においておくのは、チームの士気にも、本人にも悪い。悪循環にはまってしまう。……確かに、昨日打たなくても、今日は打つかも知れない。それも一理あるけど……いつまでもぐすぐす情けをかけていていいワケないぜ。
ホウとまたため息をつくと、彬は言いたかった言葉を飲み込むようにゴクリと喉を鳴らした。
―――いや、偽善だ。オレがとやかくいう必要はないのかも知れない。去年だって、ただの深情けと諦めていたら、あいつは打ち出した。…同じポジションだから、悪いところが目につくだけなのかもしれないし。…ただの、嫉妬心かもしれないしな。…
彬は、なかなか試合に使ってもらえないジレンマを見透かされるのが怖い、という理由で、言い出せないでいることを再確認してしまうと、今度は自嘲的に笑った。
「太さん」
「なんだよ」
「サイ…、ううん、あいつ、大丈夫かな…?…焦ってるんじゃないかな…」
「あれだけ実績のある奴だ、そんなことないだろ。オレたちが外野で騒いだって。なんせ奴は神様、仏様、稲尾様なんだから」
「そうだね…」
歯切れの悪い彬の言葉を聞きながら、そう言いながらも中西は本当は彬が言わんとする事は判ってしまっていた。くたびれきった自分に追い打ちをかけまいとして、柄にもなく彬が言葉を飲み込んだことも。
中西もすぐ後からついて部屋を出ると、
「大丈夫、何とかなるって。……」
と彬の背中を叩いた。暫く沈黙。もうすっかり薄暗くなった球場の廊下に、二人の足音だけが響いていた。
「ところで、今日はどこへ行くんだ?」
重苦しい沈黙を破るように、中西は努めて明るく問うた。
「エ?」
しかし今度は、彬の方がヤバイ展開になりそうだと声が上ずる。
「どこって、…別に」
「じゃあ久しぶりに一緒にどっか行くか?」
――まずい、まずい。
「ゴメン、太さん。実はオレ、ヤボ用で、」
彬は困惑気味に手を前にかざす。
「フーン、…なんだ。女か。じゃあ仕方ないな…しっかしお前も、いい加減にしとけよ」
「判ってるって」
彬は宿舎で中西と別れると、六本木のいつもの店へと出掛けていった。にぎやかなネオンのうずまく洪水の中を泳いでゆく彼は、スマートで粋で、知らなければだれも野球選手とは思わなかったに違いない。
彼はある雑居ビルの地下の階段を降り、隠れ家的なその店の重たい木製のドアを開けた。彼が中へ入って行くと、
「アキラ、」
とカウンターから声がかかる。
精悍な顔付き、鋭い眼光、堅く締まった、ハリのある体付き。
「トヨさん」
彬はニコニコと笑いながら寄って行く。
隣に座ると、トヨさん―――今はもうセ・リーグの国鉄の看板打者となった、豊田泰光は彬の背中を一つポンと叩いた。
「元気か?」
「そうは見えないから、背中叩いたんでしょ」
「バレたか」
豊田は豪快に笑った。
二人は暫く、豊田のセ・リーグの話とか、懐かしい昔話をしていたが、一くさり語り尽きると、
「あの人は、どうしてる?」
と、豊田が問う。彬は、核心に触れてきたな、と思った。
「気になるんなら、会えばいいのに。オレに会うなんて、回りくどいことせずに」
「バカモン。…判っとるくせに。今更そんな事出来るか。お前だから、こうして話すことが出来るんじゃ。…抜けてしまって、恨んどるじゃろ」
「さあね。オレは、知らん。オレは監督じゃないし、一ヒラ選手じゃし。…」
「相変わらずいけずだな。やっぱ、怒っとる」
「怒ってなんかいませんよ。今更怒ったってしょうがない。ナイものはナイんだから、そんなものを惜しんでる時間があったら手の内を打っていかないと」
「やっぱりお前はきついなあ。そんなもの、だなんて…」
「現実を言ったまでです。…オレが、そんなこと、言うと思ってます…?他でもない、あなたに……」
「そんなことって?」
「戻って来て、あなたの抜けた穴が大きくて……とか」
沈黙。しかし、二人はだんだんと笑いを堪え切れず、爆笑になった。
「ああーっ、気色悪い。全く、トヨさんときたら。安っぽいメロドラマみたいなこと言わせて、」
「気色悪いのはお前の方じゃろが、わざわざそんな、言葉遣いで言うから…怖い怖い」
「怖い?トヨさんに怖いものなんかあるわけがねえ」
「隣にいるお前が一番怖いわい。あんまり飲むなよ。酒が入ったお前は手が付けられん」
「じゃあ迷惑料に暴れさしてもらう。マスター、ボトルちょーだい」
彬はボトルを貰うと、抱え込んでグイグイいきはじめた。
「サイのやつ、調子悪いのか」
豊田も、古巣のことが気にかかるのだろう、今、故障で二軍落ち、上がっては打たれ、上がっては打たれしている稲尾の事を持ち出した。
「本人は焦ってるみたいだけど、相当ヤバイよ。長年の疲れが出たんだろ。…あいつも、居ないものとして残りを計算した方が賢いよ。太さんもそれは判ってるし、キチンと直して欲しいと思ってるんだけど、深情けなのかなあ、つい登板させちまうんだねえ」
「お前、忠告してやれよ」
「言ったろ、ヒラだから、そんな差し出たマネ、出来んと。たいした選手でもないし…トヨさんが言ってやれば」
「イヤ味だな。オレはもう充分、げっぷが出る程二人でやり合った。オレの言う事なんか聞くかね。第一どのツラ下げてそんな事言えるってんだ。先に降りちまったオレに」
「両雄並び立たずって奴かねえ」
「性格の不一致だろ」
豊田の脳裏には、かつて助監督として監督、中西と異見を戦わせた日々が浮かんでいた。
決して嫌いではない。むしろ好ましいし、尊敬もしている。
しかし、打撃も違えば、性格も違いすぎていた。それに、一番のライバルという条件が、二人の折り合いをますます難しいものにしていた。しかも直情型の豊田には、自分を抑えるとか、妥協するとかいうことが不可能だった。
それが「じゃじゃ馬」豊田を豊田たらしめた所以でもあった。
そして、こうやって中西の事を考えていると、いつも辿り着いてしまう思い出があった。……
昭和31年。そのシーズン、中西は三冠王を獲る勢いで豪打を飛ばしていた。本塁打、打点は三番打者として着実に伸ばし、チームは優勝へ向けて邁進していた。
しかし、クライマックスが近付くにつれ、チームの中は妙な緊張感でピリピリしていた。
豊田が激しく中西と首位打者を争っていたからである。
一番神経質になっていたのは、当事者以外の周囲であった。
だんだん言葉も交わさなくなってきた二人を、腫物のように扱った。
特に豊田はピリピリ度が激しい。口にはださねど、ムキ出しの対抗心。ライバル意識を燃やしているのが目に見えるようであった。
共に並び称される強打者でありながら、中西にはどうしても追い付けない。豊田はその引け目の元がタイトルだと思っていた。自らこのチームを背負って立っている自負はある。しかし、中西に対する僅かな引け目が、タイトルを獲ることによって払拭されると信じていた。彼はタイトルをとることに貪欲だった。
それに対し、中西は熱くなってはいなかった。彼も静かになりはしたが、それはむしろ思い詰めている豊田を刺激しまいとしているだけのようであった。数多く取ったタイトルの故か、ゆとりと、慈しみと、わずかな困惑が中西には見て取れた。
二人の緊張関係は優勝争いと共に激化し、ついに最終日までもつれることとなったのである。
やっぱり今年もだめかも知れない。豊田の脳裏をふと絶望がよぎる。中西を見れば、中西は泰然自若としている。その差を思い、豊田は又カッカッと燃えてくるのを感じずにはいられなかった。
神様は最終戦を残してまで、二人に決着を付けさせなかった。僅差で迎えようとしていた最終戦を前に、豊田の胸中を絶望と希望が波のように去来する。いっそこのまま試合に出られなかったらいいのに、とまで思う。しかしそんなエゴが通 じるはずもない。また、きっちりと決着を付けて堂々と中西に勝ちたいという思いの方が強い。タイトルよりもその方がむしろ重要であるようにも思えた。たら、ればの介在する勝負は勝負にならない。最終戦を前に、豊田の心は激しく揺れていた。
その前のチームの優勝祝賀会の時、中西は豊田が思い詰めるあまり、はしゃぎまわるチームメイトをよそに一人ウツウツとして楽しまない姿を見て、彼のタイトルへの思いをひしひしと感じとり、豊田のために、あることを考えていた。彼は豊田の側に寄り、彼を元気づけた。そして彼は三原監督に、だめもとでも言ってみようと思っていることがあった。
豊田は最終戦がとても重かった。どうにか足を向けると、監督が中西と豊田の欠場を決めていた。ほっとするのと同時に、嫌な予感がした。
あの夜の中西のことが思い出される。もしかして、監督は、中西は、…その瞬間、豊田はあれほど切望したタイトルを手に入れたのであった。
「おめでとう」
皆が口々に祝福する。
豊田、.3251。中西、.3246。その差、僅かに5毛差。ぎりぎりの首位打者だった。
複雑な気分ながら、チームメイトと歓びを分かち合っていると、おだやかな笑みを浮かべて、中西がやって来た。
中西は、
「おめでとう。オレもうれしいよ」
と言う。この瞬間、豊田の中で何かがはじけた。
―――オレもうれしい、だって…?たった5毛差でタイトルを、それも三冠王を逃したばかりだってのに、どうしてそんな笑ってられるんだ。オレだったら、そんな事は言わない。地団駄 踏んで、悪態ついて、暴れてる。でも、その方が自然じゃないか?
タイトルとは、それだけの価値があるもののはずなんだから。
それが何で、そんな笑ってられるんだ。おれが欲しかったのは、そんな反応じゃない。
情けをかけられてるのか。あのウワサは本当だったのだろうかと心にもやもやとした闇がひろがる。豊田は、ひどく侮辱されたような気がした。
この二人の欠場を言い出したのは、監督ではなく、中西の方なのだと。
―――彼がどうあれ、オレはオレに精一杯のことをやって、手に入れたタイトルだ。オレに汚れはない。オレは胸を張ることが出来る。……もし、向こうはくれてやったつもりでも、だ。これはおれの偉業だ。
根が善で、常に真っすぐな男、豊田は、すぐに、強引にそのドス黒い気分を払った。
しかし、この件は二人に明らかにある種の埋めがたき溝を生んだ。
二人の関係は、仲良くしていてもどこかしら奥歯にもののはさまった感じを拭えなかった。
それでも、豊田はそれが発憤材料になったのか、その年の日本シリーズでは、鬼神のように打ちまくった。打率は5割に近く、シリーズMVPを手に入れたのだった。あるいはそれは、豊田の負けす嫌いの性格を逆手に取った三原監督のひとつの魔術だったのか。
そして豊田は、中西へのコンプレックスの亡霊と、ついに別れることができないうちに、その場を離れてしまったのだった。彼は、ずっと中西の亡霊に、放棄したはずの闘いを我知らず挑み続けている。それは、まるで赤い靴のように。
そんな二人の溝を埋めるに足る図太き輩が、稲尾であり、仰木彬であった。中西のおおらかなソフトさと、豊田の激しさ両方を兼ね備えた人材がこの二人だった。
特に彬の、抜目ない才気走る雰囲気と、時折口走るニヒルな皮肉を豊田は愛した。
長い、苦い回想を終えると豊田は少し頭を振り、―――横でグイグイやっている彬に現実に引き戻された。
「トヨさん。何でトヨさんがそんなに暗くしてんだ。オレの方が面白くねーってのによ。さあ、飲め、飲め飲め。飲んで忘れちまえ」
夜の帝王のお出ましだ―――豊田はいやな予感に襲われつつも、強引につがれる酒に口をつけた。
「何だ、おとなしいぞ、トヨさん。『じゃじゃ馬』は、どこ行ったのよ」
「おれが『じゃじゃ馬』なら、お前は『アバズレ』だ」
―――アバズレでも、貞操は守っているつもり。
その言葉を聞き、ご機嫌になり始めた彬は思う。
―――野球に関するオレの貞操は、トヨさんには悪いが、オレの操は太さんのもの、だ。これまでも、これからも。おれはあの人に尽くしていってやる。
夜――。月が、濃い藍の空に、ぽっかりと浮いていた。
その頃、中西は、おやじ(三原脩)の所から帰りながら、月を眺めていた。
その月は、いつかフィルムで見た、カクテル光線を集めて輝く空撮のナイターの球場とだぶってくるのだった。
―――こんな時まで、野球か。全く、どうしようもないな…。
中西はおかしくなる。
傷付いた戦士達は、片時も闘いの事を忘れることはできないながらも、それぞれの闘いのつかの間の休息を、貪っていた。
昭和39年、夏の夜だった。

あとがき:これを書いたのは、ナンと97年前半の終わりくらいです。当時私はオリックスファンで、まだオリックスは首位で、10連勝だか何だかした頃…?でもなんとなしに危うさを感じていた私は、どこかでその後の転落を予感していたのでしょうか(素敵な言い回し)、「弱いチーム」の話が書きたくなったのです。それもかつて恐ろしいほど強かったチームが、どんぞこにあえいでいる、という構図。「黄昏」時の苦く、甘い感じです。(一応、テーマです!)キャラ立ては、まあ「違う…」とか言わないで下さいよ。言ってもいいけど。作品だからね、あくまでも!材料を拾って後は邪推で出来ました!
豊田さんのキャラ付けが女々しい…こんなの見られたら逆鱗だすね(^^;)。仰木さんの表記が「アキラ」なのは、あきらという名前が元々好きなのと、やっぱり「傷天」でしょうね…(水谷豊のあきら、好きだー!)

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