ヒロミ、という男 2

 お店の始まりはp.m7:00。しかし、同伴等も殆どなく宵の口はヒマである。忙しくなるのは9:00過ぎからだ。皆カウンターに座って煙草を吸ったり暢気にしゃべっていた。
 ヒロミは一番奥の席で夕刊を開いていた。一面には巨人の記事がデカデカと2色の見出しで載っている。スポーツ新聞は金のムダだとブツブツ言いつつも、それしかないのでヒロミは読んでいた。
「ジット!おめでとう!恋人が出来たんですって?」
 ママが店に出て来るなりジットに抱きついた。
「ありがとう!ママのおかげよ」
「あたしは何もしてないわよ。ジットの日頃の行いよ」
 2人は抱き合っておいおい泣いた。本当に喜んでいるのである。バーバラも目を丸くしていたが、控えめにおめでとうと言った。
「ありがとう!バーバラちゃんのおかげよ!」
 ジットは言った。スカーレットも同じ展開だった。
 ――何がめでたいんだ。ご愁傷様だ。
 ヒロミはスポーツ新聞を後ろからめくりながら考えた。
「ヒロミちゃん!あなたも喜んでくれるわよね。あぁ~幸せ」
「ああ、めでたい」
「ヒロミちゃん!ありがとう!私今度こそ幸せになるわ!」
 めでたいのはてめーの頭だ。……と言おうとしてヒロミはやめた。ジットが喜び一杯抱き締めてきて息が詰まったからだった。
「いい人なのよ。明日来るから紹介するわ」
「はぁ、」
「でもヒロミちゃん見たら心変わりしちゃうかも。心配だわあ」
「なぁにが心配なんだ気色悪い。興味ないね」
「うふ。でも私ヒロミちゃんの男らしさ、大~好きよ。(うっとり)ママ、私歌っていいかしら。『世界は2人のために』!」
 ジットはこぶしの効いた声でステージを舞いながら歌い始めた。
 ――大好き?ゲー、
 ヒロミはその日1日、背中がウソ寒くて当たってばかりいた。

 その翌日のことである。
 とある高校最寄り駅前の商店街にある本屋で、ヒロミは思わず顔を本で隠した。彼は近くの高校の三年生なのだが、本屋に寄って参考書を眺めていると近くのスーパーにブリジットが入って行くのが見えた。
 ジットはいかつい体格で顔の造りも鷲鼻で頬骨が高かったりと、そこいらの男もそこのけの男らしさである。なのに性格はどんな少女より可憐で女らしい。長い髪にパーマを当てて、小股でしゃなしゃなと歩く姿は明るい太陽の下で見ると一層異様に見えた。
(昼間っからやなもん見てしまった)
 ヒロミは顔を深く本で隠した。
 ジットはビニール袋をぶら下げてスーパーから出てくると、通りの茶店へ入った。ヒロミはめぼしい本がなかったので本屋を出て、ちょっと好奇心に駆られてスクリーンを貼ったガラスに寄って中を見てみた。相手は50がらみの男、それしか判らなかった。別にそう興味がある訳ではないのでさっと離れると、さっきジットが出てきたスーパーへ入った。
 気ままな1人暮らしのヒロミは家事一切もやっている。だから料理にも自信あって店で調理見習いしていた訳だ。割と小さい頃からなので慣れている。制服で買い物しても恥ずかしくなかった。高校に上がって直ぐは家のそばでショッピングをしていたのだが、三年になってからは学校の側の商店街で堂々としている。バイト先が新宿なので、そのままバイトに行くようになったからだ。
 普段こういうのはからかいのタネになったりするものだが、恐ろしくて臭い物にフタ、誰もヒロミの行動を非難嘲笑するものはいなかった。スーパーで目が合ったりすると、くわばらくわばらと●高生徒は逃げて行った。
 彼は鬼畜も三舎を逃げるという冷酷非情な男だった。
 ヒロミは洗剤が切れていたことを思い出した。洗剤コーナーへ行くと、座り込んでううむと唸った。
 主婦の目は厳しい。値段と質、量の釣り合いの取れたお得なものをチェックするのだ。特売品は使ったことのない新製品だった。酵素配合、汚れを活性酸素がくっついて、はがします。訳が分からんなと思ったが、洗濯バサミがオマケについていたので、買うことにした。クジラのビーチボールみたいのが邪魔だったが。
 その時だった。
「宏美(ひろよし)さん。宏美さまじゃありませんか」
 誰かが後ろに立った。
「宏美様。島崎製薬社長のご長男でいらっしゃる栗原宏美様でしょう。ねえ、坊ちゃん、」
「何だ。お前」
 ヒロミは振り返りもせず、そう言った。
「は?」
「は?じゃないだろう。人に名前を訊ねる時は自分の名前を名乗るのが礼儀だ」
 あははと男は愛想笑いをした。
「そう理屈をこねられますな。一応確かめないと、人違いだったら恥ずかしいじゃありませんか」
「おれはひねくれ者でね。それじゃ」
 ヒロミは洗剤を持って歩き出した。
「お待ち下さい、宏美様」
「おれはそんな名前だって認めた覚えはないが?」
「冗談がお好きでいらっしゃるんだから…私には判っておりますよ」
「判ってるんなら確かめんでもいいだろう」
「はは。坊ちゃんにかかって適いませんな。私こういう者です」
 男は名刺を差し出した。
 受け取りながら改めて見ると、男はスーパーには不釣り合いな少し白くなってきた、綺麗に撫でつけられた頭、びしっと生地の良い、仕立ての良さそうなスーツに身を包んだ紳士然とした渋い男だった。
 ヒロミは名刺に目を落とす。

  島崎薬品工業経理部長  佐々 正義

 そう書いてあった。
「雑巾みたいな名前だな」
 チラリと佐々を見てヒロミはニヤリとした。
「それで?」
 そう促すと、
「はあ、お見かけしたものですからちょっとご挨拶までにと。どうぞお見知り置きを」
 雑巾と言われて男はいささかムッとしたようだった。ヒロミは声を上げて笑い出した。
「スーパーの中で言うセリフじゃないねえ。今日びの管理職さんは仕事の合間に商店街のスーパーで買い物すんのかい?奥さんの尻に敷かれてさ。……あはは!ウソはいいから。おれに取り入ったって何も出んぜ。残念ながら」
 ヒロミはニヤニヤと佐々を眺めた。
「別に私は取り入ろうなどとさもしいことは考えておりません。しかし宏美様を推すつもりではあります。何といってもあなた様はご長男でいらっしゃいます」
「今更オヤジがそんな事言い出したらブン殴ってやる。名字でも判る通り、おれはあの家とは関係ないんだから」
「しかし、しかしですねえ、お坊ちゃま」
「しかしもかかしもあるか。跡取りは弟が居るだろう。あれに取り入れ。取り入り甲斐があるぞー」
「だめですよ。てんで頭が悪くていらっしゃるでしょう。こう言っては何でございますが。その点私は宏美様にかけているんでございますよ。頭脳明晰、胆力抜群、リーダーシップに優れていらっしゃる。人物も素晴らしく、きっと人望をお集めになられるでしょう。それでこそ益々発展も望めるというものです。社長は人を見る目をお持ちでない。私はあなたの味方です。和美(弟)様が社長になってごらんなさい。あんな盲が杖をついて歩くような先見の明のない社長では、つまづいて転がったり、滝に落ちて死んでしまうように、社は倒れること必至、だからといって迂闊に誰かに手を引いて貰ってみなさい。和美様のような人望のない方ではたちまち身ぐるみはがされてしまいます。この世はハイエナの世界です。それに比べると宏美様、あなたはモンゴルの牧人です。モンゴルの牧人は羊を追うので大変目が良く、5.0や6.0がざらだそうですよ」
「ほ~。あなた物知りで口が上手いね」
「はっ、それほどでもございませんが」
「別に褒めてる訳じゃない。物言えば、唇寒し、だ。いみじくも孔子先生も巧言令色、鮮し仁、と名句を言ってる。あなたはご存知ないかしら」
 ヒロミはレジに洗剤をポンと置いた。店員はレジを打って金額を読み上げた。
「ああ。それを買われるんですね。どうぞ私めにお支払わせ下さいませ、君」
 佐々はそうレジ係に声をかけるとサイフから万札を出した。店員は呆れた表情を見せたが手際よくお釣りをくれた。
「有り難う。これお礼に取っといて」
 ヒロミはクジラの風船を佐々に押しつけた。
「あ、送って参りますよ、」
「いいよ。電車で帰るから。さよーなら」
 ヒロミはつきまとわれないようにさっさと駅の中に駆け込んだ。
 コインロッカーからバッグを引きずり出す。私服を預けていた。トイレで着替えを済ませると、制服とカバンと、洗剤をロッカーに入れた。時計は3時45分を差していた。
 そのまま“ラムール”までの繋ぎのバイトに行く。稼ぎは“ラムール”で充分だったからヒマ潰しに来ているようなものだった。実際かなりヒマな店だった。
 6時半にそこを出て、外を見るとまだ大分明るかった。もうすぐ梅雨の頃だった。ヒロミはちょっと警戒して回りをさっと見る。特に今日は佐々という怪しげな男に会ったので神経がぴりぴりしている。途中の店に寄り道したり、色々気を遣いながらヒロミは“ラムール”に辿り着くのである。
 ヒマな間に新聞を開くと、また学生と機動隊の衝突の記事がデカデカと載っていた。ヒロミはちょっと溜息をついた。彼は大学へ行きたいのである。勉強しにだ。こんな事にはちっとも興味がなかった。その為にもこうして働いているのである。
 ボチボチお客が来始めた。お調子者のスカーレットが出迎える。
「まぁーお久しぶりねえっ。寂しかったわぁ。あらっ、なんだか男らしくなったみたーい」
「そうかい?」
 40過ぎのどう見ても男らしいとは言い難いビヤ樽腹がご機嫌に答えた。
「んーっ、このおヒゲねっ。すてきよ、クラーク・ゲーブルみたい。ん~、渋いっ。やっぱり男はヒゲよ。ねっち、バーバラちゃん。ああ、惚れてしまいそう~」
「え、ええ……」
 そんなスカーレットをあいつは野だだ、とヒロミは思った。人の機嫌取りが上手い、夏目漱石の坊ちゃんに出てくる野だいこだ。そう言えばうらなりも居るとヒロミは思った。だったらジットは何だろう。山あらししか居ない。あんまり填ってるのでヒロミはおかしくなって噴き出した。
「ヒロミちゃんもいらっしゃいな」
 スカーレットが声を張り上げた。ヒロミはカウンターから手を振る。
「今、両手に花じゃないか。遠慮しとくよ」
「ヒロミちゃん、ちょっとは愛想振りまいてきなさい」
 カウンターの中のママが言った。しょうがなく立つとヒロミはバーバラの隣に座った。
「こんばんは」
「おおヒロミちゃん、キレイだねえ。さあさあ横に来ないかい」
 男は自分の横を叩く。
「ヒロミちゃん、お酌してあげなさいな」
 スカーレットが言った。ヒロミは左手でビール瓶を掴むと、男のコップにトクトクと注ぎだした。
「お客さんを見ているとフランスを思い出しますわ」
 ヒロミが頓狂なことを言い出した。
「そうそう。このネクタイが赤、白、青でトリコロールよね。おしゃれだわー」
 スカーレットが調子に乗って言う。
「本当に、よく旦那を引き立てているわね。そのネクタイ」
「ああら、珍しい。どういう風の吹き回し?ヒロミちゃんが褒めるなんて、」
 レットの声に、男は嬉しそうにビールを飲んだ。
「フォア・グラってご存知かしら」
「ううむ。鴨の肝臓だな。フランス料理の珍味だよ」
「病気の肝臓ですね。ビールを飲む姿は生き埋めの鴨さながらね。これだけ丸くなると肝臓はコレくらいですよ」
 ヒロミは両手で大きさを作った。
「世界で一番旨い神戸ビーフかな。ビール飲ませて太らせるやつ。サシが入って旨いんだそうですよ」
 一同はシーンとなってしまった。
「ヒロミちゃん、肉体的欠陥をあげつらっちゃあいけないわよ」
 愉快そうにスカーレットが言った。
「に、肉体的欠陥?」
 男は狼狽した。
「ああら、私は褒めたつもりだけど。太っ腹だって」
「わっはっは、言い方がまずいわよ」
「スカーレットちゃんまで……西岡さん、気を悪くなさらないで……」
 細々とバーバラが声を上げた。
「ちょっと、バーさん、どうして気を悪くすするのよ、この位のジョーク。受け流せなきゃ男じゃないわよ」
 レットの言葉にヒロミはニヤニヤとシニカルな微笑を浮かべていた。
「太っ腹太っ腹、あははははは」
 女装してるのも忘れてスカーレットは豪快に笑い続けた。
 男はすっかり大人しくなってしまった。その大きな体がしぼんだようだった。
 その気まずさの中、もう1人中年の男が入ってきた。
「あなたぁ!」
 ジットが飛びついていった。ヒロミは相手の男が絞め殺されなきゃいいがと振り向いた途端あっと叫びそうになった。
 ――佐々だ!
 思わず顔を伏せると、もう一度顔を上げる。世間が狭いということを、この時ほど感じたことはなかった。

ここまで、と打ってみたら意外や長かったですね…!でもどうしても。今日は新聞出しのせいで腕も筋肉痛らしいです。二の腕痛い…しかしベタなセリフ、多うございますね。ほっといて下さい(笑)

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