ブレイクスルー4 -35-

 カバンだけ掴んで慌てて事務所を飛び出して、真っ直ぐ暗い我が家に帰ってきても何をする気になれなかった。
 部屋の中は暗くて、しけっていて…、ただでさえ重いおれの気分に更に重力を加えるように重くて、ああやっぱり梅雨なんだな…うっとおしい季節だな。とますますあらゆる気力を削がれて、ソファに座ると条件反射でテレビを点けた以外は、何も動かなかった。
 誰もいない部屋へ一人で帰るのって、やっぱ寂しい。疲れが取れない。ご飯も食べたくないし、シャワーもめんどくさい。それどころか、着替えるのさえ億劫だ。トイレにだって立ちたくない……。
 そんな気分のまま、時間だけが刻々と過ぎていくのを感じていた。頭もあんまり働かない。
 ふと気付くと、サーサーと細かい雨の降る音が聞こえていた。
 ああ明日は雨か……打ち合わせ面倒だなぁ。あ…早く行かないといけないのか。
 ………原田は傘を持って出たっけ……
 ……原田。野々垣さんと飲みに……なんて、最高に悶々とするじゃないか。大丈夫なのか……?
 こないだの酔っぱらってのキスが脳裏に浮かぶ。全く覚えてない原田、特に野々垣さんが好きでしたわけでないのも分かってる。だけどその罪のなさがますます心配にさせる……
 ……野々垣さんは、あんなこと言うし……
 そのまま、リビングのソファに座っていたが、なんとなく…喉が乾いてきて…でも無気力にも動きたくなくて、自分をごまかしていたのだけどどうにも飲み物のことしか考えられなくなって、でもお茶を淹れるのも面倒、冷蔵庫には清涼飲料の類も何もない、ってことで、どうにか台所へ行くとウィスキーの瓶に手が伸び、氷をグラスにたっぷり入れると、水割りを一杯作って瓶を片手に戻ってチビチビ飲み始めた。アテなんか欲しくなかった。
 空きっ腹、でもなかったけど、酒だけ飲んでるのは負担が大きい。直ぐに頭がクラクラしてくる。空腹感がないけど、昼から何も食べてないんだから空きっ腹なんだろう。
 原田は今頃まだ飲んでんのかな。あれから飲んでるとしたら、もう結構酔っぱらってんだろな。
 …野々垣さんの前で、酔っぱらうなんて。なんて危険なんだよ!…あーなんかむかついてきた。
 ……なんで野々垣さんと飲みになんか行くんだよ!
 ちょっとおれがた、……勃たないくらいで。当てつけるように。逃げるように。ひどいじゃないか。ひどいよな?
 おれ、なんで原田が好きなんだろう……だんだん回らなくなってきた頭で、やっぱり動くのが億劫でどんどん濃くなっていく酒を機械的に喉に流し込んでいた。
 カチャリ。そうしているとドアの方で音がする。帰ってきた。身体が冷水を浴びせられたようにひゃっとする。
 ……酔っぱらってるだろうか。ちゃんと歩けてきたんだろうか。…足音は1人分みたいだけど……
 意外と矍鑠とした足音が寄って来、廊下とリビングを繋ぐドアの磨りガラスに人影が映り、すぐに開けられた。
 なんとなく不機嫌な顔。そういう時特有の、むっつりと一文字に口を引き結んだ顔。余り酔ってはいない。ということは余り飲まなかったのか?でも顔は薄く紅潮している。
「………おかえり」
 なんとなく気詰まりで、そう声をかけた。
「……ああ」
 原田も低く答えると、床にひいてあるラグの上にカバンを投げ出し、それからチラとおれを見た。
「…帰ってきたばっかりか?」
 逆に質問される。おれが服をきたまんま、だからだ。
「………傘、持ってた?」
 なんとなくそう訊くと、原田は肩の辺りを払う。微かに飛び散る雫。持ってなかったらしい。
「……どうやった?野々垣さんと。…今日は余り飲んでへんな。何もなかった?」
「……何って、何がやねん。…オマエこそ、人の質問には答えろや。今帰ったばっかりか?」
 なんか、むっとしてしまった。
「なんで答えへんの…。なんか答えられへんようなことあってんやろ、」
 すると原田は不満げにおれを見、言う。
「なんでおれだけ答えなあかんねん……お前にその言葉熨斗付けて返すわ。高階と二人、なんかあってもおかしないよな。……」
「原田!」
 おれは思わず立ち上がっていた。
「おれはただ、……心配なだけで、」
「おれも心配やで。せやから何かあったか、て訊いてんのに。ずっとだんまりのくせ…、お前が言わへんから、おれも言わへん」
 な……
「それこそお前はおれに言われへんことがあってんやろ」
「……野々垣さんとお前は前キスした、」
「ああ、酔うてやろ」
 なんでそんなにあっさり言うのか…酔ってたことが、免罪符になるとでも思っているのか。
「野々垣さんは、前泊まったときにヤッたって言ってた、」
 するとじろりと睨まれ、
「…お前おれよりあいつの言うこと信用するんか。…そりゃしゃあないよな。覚えてへんけどキス、ていう前科作ってもーてるからな。だからおれもお前のことが同じように信用できひん、て言うてもええか?」
「……言いがかりだ……」
「そうか?」
 なんか身体が震えてきた。飲んで熱くて、だるかったのに。
「おれは我慢したのに……」
「我慢……?我慢か。どの口が言うねん。我慢したて言うことは、結局ヤられそうになってんやろ。ちょっとはお前もしたかったってことやよな。やっぱあのカメラマンか?我慢したとかいうても、お前のことやから、唇くらい許してるんちゃう?その位なら許容範囲と思ってるんちゃう?そのお前が、おれをなじれるたまか。どうせ高階とも何がしかヤッててんやろ」
「ひ……ひどい。よくそんなひどい……」
 怒りと恐怖で、寒気がし、唇が震えた。むかつきすぎて、こめかみが、頭が痛くなってきた。
「何がひどいねん。おれの言うことがひどいんやったら、それをしてるお前はおれにもっとひどいことしてんねんで。どないやねん。正直に言うてみろや」
それは分かってる。分かってるけど……
「おれはお前が、好きやのに、」
「あーありがとう。おれも好きやで。好きやからおれも我慢しとった。見て見ぬ振りを通そうと思った。でも…もうできひんわ。続かへん」
「………それって、別れる、って言うこと?もうおれとは付き合えないって、そういう……?」
 自分の口から出た言葉にひどく傷付いた。目が熱くなり涙が零れそうになる。歯を食いしばり、堪えた。
「そんなんが続くようやったら、もうおれはお前の回りに嫉妬するのに疲れて、…惨めな気分になるのに疲れて、好きな気持ちも忘れてしまうやろな。大体付き合ってる意味ないし、」
 何を言ってるんだ?原田。原田からこんな言葉を聞くなんて。どこか遠いところから聞こえているような変な感覚の中、聞きたくない言葉が耳に流れ込んでくる。
「は、原田……、何言うて……絶対離さへんて、あんなに……あれは……」
「いくらおれでも、もう自信ないわ。離すつもりはなくても、お前はフラフラ漂ってくし、…まぁ、しゃあないかもな。そもそもおれとお前の始まりが、始まりやし」
 聞きたくない。それ以上聞きたくない。
 おれはベッドを越えて飛びかかり、殴っていた。バキ、と音がし、拳が痛い。原田の俯いた頬が、赤い。視界が滲む。原田の口から、そんな言葉聞きたくなかった。彼を殴る資格が自分にないのは分かってる。でも、自分を止められなかった。言って欲しくなかった。おれをいつも包み込んでいて欲しかった。おれの帰るところは原田のとこしかないと。
「……っ、」
 激情の高ぶりから呼吸が乱れしゃくりあげると、原田がおれを見た。
 そしてパシッと音が鳴り、頬に熱い痺れを感じ、自分が平手打ちをくったことに気づいた。
「お前に何が分かる。なんでおれが殴られなあかんねん。怖いくらいの自己中っぷりやな、」
「ひどい…ひどい、おれの気持ちも知らずに……」
「言わな分かれへんやろ。お前のお守りは、疲れたわ……」
 本当に頭から血が引いた。思考力は完全に停止。今まで口喧嘩すら本格的にはしたことなかったのに。おれは自然とまた手が出ていた。胸ぐらを掴み、原田を殴る。その手応えだけが、おれを支えていた。原田だって今までの腹に据えかねた思いを発散するように、黙って殴られてはいなかった。
 夜中なのに、近所迷惑なくらい、とっくみあいの殴り合いに発展していた。
 腹に入った一発に息が止まりそうになり、おれはそこにしゃがみこんだ。原田は手もかさず、立ちすくんだまま。そして、上から声が降ってきた。
「……どこでも、行けば?高階んとこでも…おれと違て優しく慰めてくれるやろ。お前が欲しいいう下心があるから、」
「……!」
 もうこれ以上聞いていたくない。左手を握りしめる。指輪の感触。……我慢出来ず、指輪を抜いて原田の顔に投げていた。反射的にしかめる原田の頬に当たり、そのまま薄く開けていた窓から、外へ飛んでいってしまった。
「……分かった。出てくわ、お前でなくても、別に……じゃあな」
 おれはカバンと上着、キーを掴んで飛び出すと、一瞬未練がましくドアを見た。ドアは開かない。原田は追ってくる気がないんだ。
 もう、ほんとにそうしてやる…!ほんとに高階クンとこに行ってやる!どうしようもなくむかついてきて、なんだか自棄な気分が湧いてきて、すっかり頭に血の昇った状態で、一階の駐車場に行くと、車に乗り込む。

あーやっとここまで来た…。そうです今回最も書きたかったのは、二人のけんか(殴り合い付)、自信を失う原田君。書き進めていくウチにそこまでの経緯は随分変わってきたけど(ありがちなことですね)やっとここまで来た。多分後はそこそこ進んでいくのではと…少なくとも月1なんてことは、二度とないかと(笑)

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