ブレイクスルー 3 -10-

 むせ返るような熱気の暗室の中、潮崎さんに柔らかく唇を吸われ、頭の芯がぼうっとなった。そのすきを付いて、舌が侵入してくる。探られ、絡められる。
 いきなりこんな、ディープなやつを、しなくっても、いいだろう…?
 身体が疼いてくるじゃないか。仕事中なのに、困る…いつまでも出てこないと、うちの主任は怒るし、きっと唯野さんたちもヘンに思う。
 息継ぐ間に思いっきり力を込めてどうにか彼を押しやると、少し濡れた口をさっと拭い、なんでもないような感じで、つい握りしめてしまったせいで皺の寄った原稿に目を落とし、おれは言った。
「……この、フォーマットの部分なんですけど、書体が太すぎて潰れると思うんですけど、どうしてもこんなイメージの字が欲しければ、……」
 とにかく、この業界は手さえ動いていれば、って感じの過酷労働業界なのだ。皆手一杯だし、納期は厳守だし、こんなことで仕事を放り出すなんて、考えられないことだ。
 女ならまだ許されようが、大の男が、キスされたからって、仕事を放り出すなんて…
 だから、そういう雰囲気を壊し、先に仕事を済ませてしまおうと思った。
 彼は暫く無言でおれが押しやったときの姿勢のまま立っていたが、一つ息を吐くと、
「それは向こうの指示やなくて、おれが決めた書体やから、君に任せるわ」
「じゃ、おれの思う書体を、使わせてもらいます」
 それから少し間を置いて、潮崎さんが何か言うかなと思って待っていたのだけど、何も言わないので、いくらなんでもこのまま、さっきの件を流す、というのは彼の性格的には益々後に響くと思い、
「……さっきのは、どういう……?」
と訊ねてみたけど、返事がない。さっと目をくれると、なんかつらそうな表情。こっちも胸が締め付けられた。
 言わなきゃいけないのだろうか。今。あのセリフを。どー思う?高階クン。
「あの、潮崎さん、もしかして、おれのこと、……」
 そのとき、外から
「潮崎ー、急ぎのやつあんねん。ちょっと空けてくれー」
という版下の人の声が。
「あ、ああ、…」
 彼はおれを避け、入り口に寄ると、幕を開けた。さっと流れ込む外の新しい空気と、光。
「……じゃ、おれはこれで、」
 そう言って、おれは一礼して外へ出た。
「ああ、…」
 あくまで素っ気ない、というより、なんていうか、彼の迷いが手に取るように分かる反応。
 潮崎さんて、こんなにほっとけない感じの人だったのだろうか。いや、多分その相手が、おれだからこそ、……
 席に着きながら、ちらと田辺さんと、主任と、曽根さんに目を走らせる。誰も自分に手一杯で、おれを気に留める風な人物はいない。しかし、自分がどのくらいあの中に籠もっていたのか、全く感覚が掴めない。結構長かったような気もするし、なんでもない時間のような気もする。
「曽根さん、…主任さん、おれが席外している間、遅いなーとか言ってませんでした?」
 妙なことを訊いている、という自覚はあったけど、訊かずにおれない。曽根さんは原稿から顔を上げ、
「エッ、別に。…遅いいうても、いつもと同じくらい、やろ?」
 ま、いいか。それから仕事を頑張った。
 潮崎さんと話す時間が欲しいとも思ったけど、何も、急ぐことではないし、…好んで話したい話題でもなかったので、残業を終え、そのまま帰った。社内の人には、相談できないし。
 これは、いい加減原田に言わなきゃならない事態だよな…と思うと、どんよりする。
 やつの言うことなんて、聞かなくても分かってる。転職。多分今のところが6ヶ月目目前だから、6ヶ月で辞めなさいと言うだろう。そしてすぐに彼の会社に入るか、それともまた保険を使って休ませるか…
 今の会社に入るとき、何の相談もなく決めた(だってムカついてたから)ことや、潮崎さんとそうなってしまったことは悪いとも思うけど、おれの人生、幾ら何でもそこまでやつに決められたくない。という意地、男のプライド?みたいなものが、沸き起こる。
 高階クンは、まあ彼がああいう人物だったからこそ、だろうけど、おれはどうにか上手く収められたと思うぜ。どうにか潮崎さんも、ナイショで処理(ってなんか言葉が悪いな…)できないものだろうか。…
 高階クンに、話したい。また、ぶちまけたい。と思って、何かが狂ってることを感じる。達っちゃんと付き合ってたとき、原田は、まあおれを釣り上げるためもあったんだろうけど、今の高階クンみたいな感じで何でも受け止めてくれて、全てをぶちまける対象だった。それが、この段階に来てまで、おれって、言い渋ってる、……
 友達には話せても、そういう対象には話せないことって、あるよな…
 そう自分を納得させ、乗り換えの駅まで行くと、どうも電車に乗る気になれない。まだ店も開いている時間だし、たまには気晴らしに店でもぶらつくか…そして何か買ったら、お約束で文句垂れられるんだなあ…
 人生ってよく分からない。なんてデカイこと考えてる場合じゃない。でも、昨夜はあんなになんですか、ラブラブなひとときを過ごした相手に、今日はこんな思いを抱えてしまってるんだから、先のことは良く分からない。
 あと、1日だけ、黙っていよう…、潮崎さんと話すか、高階クンと話すかしてから、ちゃんと言うべきこと、言いたいことを纏めてから言おう。と後ろめたくも決めると、おいしいカレーの店に寄って食べて幸せになってから帰った。
 それにしても、家が見えてきたときのおれの心境。
 下の人の部屋の明かりが見える。昨日はちょっと羽目を外しすぎた。なんかいたたまれないような恥ずかしさを覚えた。この文化、出るまで下の人と会いたくない。でもこの物件、気に入ってるし…しかし、おれたち、フツウでもかなりうるさくしてるかも…ああいう風なことしたいときは、やっぱりホテルに行かなきゃダメだな。と反省した。今日から少しでも色々抑えよう、と。
 そして、いつもの夜の繰り返し。
 一応、なるべく静かに、と互いに気を使って始めたものの、やっぱり佳境に入るとそんな余裕もなくなって、没頭してしまい、
「お前、他のヤツの前で、そんな悩ましげな声出すなよ。最近反応良すぎるから、心配になるわ」
と彼が言う。
「人ごとみたいに、言うなや…開発?したん、お前やんか…」
 おれも浅く息継ぎながら言う。
「お前はもともとHな身体してました」
「…お前が、声出せ、出せってうるさいから、…お前が、してんで、こんな身体に、」
 実際、声を出すのと、出さないのでは、気持ちよさが全然違う。そんな身体を、こっちこそどうにかして欲しい。
 原田はカンがいいから、ほんとは何か、気付いているんだろう。さっきのセリフ、昨日のあの表情…。
 それとも疑心暗鬼かなあ。

 次の日のお昼、高階クンは、なんだか得意気に見えた。ゆったりと、ヤレヤレといった雰囲気で、注文の品が来るまでの間、タバコをふかしている。間違っても、落ち込んではいない。
「高階クン、…大変やってんてね。大丈夫?」
「なぁに。あの位。どうってことありませんよ」
「はぁ?」
「ウチが100%被りそうなところを、折半まで持ってったのは、おれの営業術ですもん。自分でもようやったって、誉めてやりたいくらいですよ」
「それでそんなに、ふんぞり返ってたんだ…」
「折半くらいでこうエラソウにされたんじゃかなわんわ。営業力はともかく、校正力は信用ならんわ」
とあきれて原田が言う。
「……なーんだ。てっきり落ち込んでるかと思って、慰めてあげようと思ってたんだけど、……」
 おれが薄く笑いを浮かべて言えば、高階クンは「エ、」と目を丸くし、
「おれ、ホンマはめっちゃ落ち込んでるんですわ。もー、どん底、」
と彼はテーブルに身を乗り出す。
「ウソばっかり、」
 おれは鼻で笑う。注文の品、今日は洋食なので、日替わり定食が来たので、食べ始める。
「こないだも言うたけど、こいつに慰めなんかいらんで。心配してソンしたわ」
 その日、なんだか嬉しそうに高階クンはうちの会社にやってくると、おれの横に来て、
「赤城さん、おれ落ち込んでますから、あとで慰めて下さいね」
とか言う。
「それが落ち込んでるツラか。……」
「じゃ、誉めて下さい」
「頭くらい、なでてやるわ」
 おれがそう言うと、彼はしゃがみ込む。そして笑いかける。
「はいはい、ヨシヨシ、」
とぞんざいに撫でてやる。そして小声で、
「高階クン、ちょっと話、あるんやけど、…外で、少しだけ、いいかな」
 彼はしゃがんだまま、おれを見上げて、
「なんぼでも。あなたとの時間、取れるんやったら、……」
「高階クンは、あきらめがほんとに悪いみたいやね」
 そして彼が仕事を済ませ、出ていくのを横目に見送って、少し遅れておれは席を立つ。ドアを開けると、勿論彼の姿は見えない。非常階段のところに行くと、壁にもたれて待っている。
「誉めてくれんの?慰めてくれんの?それとも……何か、ありました?」
「3番」
「アイツ?」
「うん……キスされた」
 彼は少し口元を引きつらせると、
「原田さんには?」
「まだ、……」
 おれが目を落とし言うと、彼は自分がもたれていた壁におれを取り込む。そして上目に嬉しそうにおれを見る。
「高階クン、あのな、……」
「ストップ。おれこれからカウンセリング料取りますからね。……」
と彼は顔を寄せてくる。
「そんな高いカウンセラー料、おれよう払わんわ、」
 彼の顔を手で押しやり、そう笑って言っていると、人の気配。慌てて高階クンを引き離そうとすると、壁の影から現れたのは、…
 潮崎さんだった。とても険しく、苦々しい表情。なんてタイミング。
 彼はくるりと後ろ向き、去りながら
「アレ、色校来たから、……訂正多いから、説明あるから、早めに来てや」
と言う。
「潮崎さん、…」
 おれが声をかけていると、
「潮崎、さん?ちょっと待ってください。…」
 高階クンがさっと身を離し、潮崎さんの腕を掴む。潮崎さんは、立ち止まり振り向いた。
「あのね、オレはこの人のこと、好きですけど、この人はおれのこと友達としか思ってませんから」
「……だから?何?」
「この人のこと、誤解しないであげて欲しいってことですよ」
「高階クン、……」
 不敵な笑みを浮かべて立ってる高階クンは、三人の中で一番堂々としていて、とても年下とは思えない。
「誤解?誤解も何も、ないんちゃう?赤城君には奥さんいてんねんから……」
 潮崎さんがそういうと、また高階クンはニヤリと笑い、
「そう。そういうことです」
 そこで高階クンと別れ、おれと潮崎さんは一緒に会社へと歩き出した。
「おれやったから、いいようなもんの、……あんなとこで、あんなこと、してんなや」
 潮崎さんが吐き捨てるように言う。
「すみません、……気を付けます」
「気を付ける?……」
 そう言ったあと、彼は暫く絶句し、
「滝本が、最初君探しに行く言うてんで。でもなんか君とあの子は妙な感じやからな。気になっておれが探しに来てんけど、…」
「妙?」
 おれが咎めるように言うと、彼は
「おれが、そんなこと言われへんの、分かってるけどさ、…」
と苦しげに言う。
「………」
 いや、おれが言いたかったのは、そんなことじゃなかったんだけど。なんか切なくなった。
 おれと高階クンが、潮崎さんに妙に映っている、ということが、聞き捨てならないセリフだったんだけど。潮崎さんだからだろうか。他の人も、そう思ってる人がいるのだろうか。
 さてその仕事は、そんなぎくしゃくした二人の間の空気をフッ飛ばすほど、とんでもない量の訂正の仕事だった。しかも納期が、きつい。
「これを明日一回出して、校正してもろて、明日印刷に回す?」
 潮崎さんが念を押す。
「だってそうしないと、間にあわへんもん」
 営業の滝本さんはしれっと言う。
「あのなー、…」
「滝本さん、ちゃんと校正して下さいよ。オレ、刷り直しとかゴメンですから……」
 おれが言えば、滝本さんは、
「クラが見るから、大丈夫」
だと。あのなー、……
「明日のボーリングは、ナシかー」
 がっかりと潮崎さんが言う。この様子じゃ、おれもナシだ。
「残念でしたね」
 すると潮崎さんはおれを向き、
「赤城君は、ヘタやからほんまは嬉しいんちゃう?」
「おれそこまでヘタとちゃうんですけど、」
と、なんだか和んでしまったのだ。困難は確執を超えて、団結力を、強めるものだ。
 夕方、会社におれ宛に電話があった。
 高階クンだった。話が途中で終わったので、気になってかけてきたらしい。
「おれ、カッコ良かったでしょ、」
とぬけぬけと言う。
「カッコ悪い。そんなこと言うとカッコ悪いわ、高階クン」
「……まあ、いいですけどね。ほんとはカッコエエと思てんの、分かってますし。…いい加減、言わなあきませんよ。今言わへんかったら、もっと言いにくくなるかも知れませんし、……」
「………」
 押すように、低く命令口調で言われて、おれは返事できなかった。
「言わな、ダメ……?君みたいに、上手くいかへんかな……?」
「おれとあの人とは、大分違う」
 確かに。潮崎さんが高階クンみたいにどんどん押してくるタイプだったら、おれも色々対処のしようがあるのに。
 でも今日はおれ、むちゃくちゃ遅くなりそうなんだけど。ヘタすると帰ったらヤツは寝てるかも。いや、もっとヘタすると泊まりかも…
 では、どう言ったらいいか、考えよう。仕事しながら……
 と思ったけど、それどころではなかった。何回かに分けて写植を出し、最後の分を出したとき、もう11時半位だった。
「帰っていいよ」
と言われても、何か訂正とかあったら、…と言うと、
「明日の朝でも、なんとかなるやろ、」
 重い足取りで家路を辿りながら、もう出たトコ勝負で取りあえず言おう、…と思った。わがままなところもあるけど、原田はおれなんかより、ずっと考え深いし、むやみに怒ったり、しないだろ……
 そして家に帰ると、家は真っ暗、原田はまだ帰ってなかった。留守電が入っているので、再生すると、彼。
「高校んときの連れから電話あって、飲んで帰るから、先に寝てていーわ」
 タイミング外してしまった、って感じである。ヤツが帰って来るのは、きっと夜中もいいとこか、朝、だろ。彼も明日、出だからそのまま行ったりしそう。
 おれも明日はあの仕事が気になるからちょっと早めに出たいし、寝た。

 次の日、昼前に滝本さんは訂正を持って行った。
 そして昼過ぎ、おれたち以外は順調に仕事を片付けていき、4時過ぎ頃唯野さんが、
「よし、そろそろ行くかー」
と音頭をとる。潮崎さんは、頬杖ついて唯野さんをじろーっとにらんでいた。
「じゃ、潮崎、赤城君、あとよろしくね」
滝本さんが、手を振って言う。
「はぁ?」
「おれ、ボーリング行くから」
「ちょっと待てや、仕事ほって行く気か。訂正あったら、誰が取りに行くんや、おれ行かへんぞ、誰が版下製版に持っていくねん、」
 潮崎さんが文句言う。
「クラが電話して持って来るから。校正もしてくれるから。製版屋は呼べば来るから」
「滝本さん……!」
「じゃお前ら仲良くなー」
 唯野さんも陽気に言う。今、気まずい同士なんだけど。
 ふと気づくと、田辺さんがおれをじっと見ていた。そして潮崎さんのとこに行くと、
「校正、しましょか?」
「あ、いや別に…いいよ、行って来たら?」
 潮崎さんは、伏し目がちに言った。
「じゃ、何かあったら、……」
 と、多分今日行くところの電話番号を渡してる。
 そしておれたちは、二人きりでクライアントの連絡を待つことになった。  

なんか書き出したら面白くて仕方ないわー。ちゃんと動かせるか心配だったんだけど、特に高階、いざ動かしてみると、こいつが一番やりやすい。ほんとはあんたの出番は終わったも同然の筈だったのに。原田君に言おうか言うまいか…てのは実際悩みながら書いてたりする。でも言ったら話が急転直下終わりそうでしょ(笑)もうちょっと辛抱してねって感じです。

Copyright 2005 Lovehappy All Rights Reserved.