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「穂積君。はいこれ」
 総務の湯浅が、にっこりと綺麗に笑みながら、定時を前にさっき会社に戻ってきたばかりの比佐史の机の前に立った。手は書類を一枚差し出しながら。
「あ…ありがとう」
 営業スマイルにしても気持ちのよい、湯浅の笑顔に見惚れながら、ぎこちなく比佐史はその紙を受け取った。
 長い薄い色の髪、白いブラウスに紺のベスト、膝丈のタイトスカート。そんな清楚な制服姿が、凄く眩しい。
「遅くなってごめんね。…でも穂積君引っ越すんだー。結婚?」
「まさか!」
 渡された書類は会社への転居届…その書き込む欄を眺めながら、短く比佐史は否定した。
「結婚だったらそろそろ私たちにも情報入るもんね~…じゃ、彼女と暮らすとか、」
「…まさか」
「そうなんだ~?穂積君て……絶対いると思ってたけど?」
 湯浅は比佐史のデスクに両肘を着け、小首を傾げて言う。それがまた可愛らしい。
「絶対いるのは確実だって」
 その話に横の席の田島が口を挟む。田島は穂積の同期だったが、今までは課が違い、部屋も違っていたのでそういうヤツがいる程度の認識だったのだが、今年度比佐史の居るこの課に異動してきて以来、席も隣になりかなり親しくなった。そう言う田島こそ、彼女がいないのがおかしいような男なのだが、
「いない人間の行動じゃないでしょ。ずーっと合コンは不参加だし、全然物欲しそうじゃないし、イマイチ付き合い悪いし、……第一なんかいそうな気配があるんだよな」
となぜか合コン男である。そう言われてドキリとしつつ、比佐史は田島を見て、努めて笑い、言った。
「そんなこと、ないって…おれだって彼女、欲しいし結婚もしたいよ…」
「マジでか」
「マジに決まってるだろ、どこに独り身で欲しくない男がいるよ、」
 焦るような口調の比佐史の顔をじーっと見ていた田島は、急に破顔し、
「そっか~穂積も欲しいのか!モテそうなのにスカしてるからと思ってたけど、素直じゃないだけだったのかよ!」
 田島は今度はやたらとフレンドリーに背中をばんばんと叩く。肩をすくめ、怯え気味に
「あ、あの……」
と訴える比佐史に、田島は言った。
「じゃ、今度合コン絶対参加な。26日、穂積君参加決定~!」
「えー穂積君行くんだ。…あたしも付いて行きたいかも」
「湯浅さん……」
「ごめんね友達のとことだから、湯浅さんなら連れて行きたいけど今回は女の子連れて行けないよ。……この埋め合わせは、今夜にでもどう?」
「うーんどうしようかな急に言われても……穂積君は?」
「え…おれ…?おれは……」
 彰に勉強を見てやる約束をしていた。比佐史は思わず俯く。
「ごめん。用ある……」
「えー」
と湯浅。
「やっぱ付き合い悪いよ自分ー」
と田島がステレオで言う。
「ごめん……」
 飲みには行きたい。でも彰は前もって予定がないことを確認して『勉強』の日を入れる。
 しかし決して本意ではない関係なのだから、いっそ無視して田島達と行ってしまおうか。待ちぼうけをくらわせて、溜飲を下げてやりたい。と比佐史は思いを巡らす。
 そして目を伏せる。そんなこと、今までも何回かやった。幾ら弱みを握られてるとはいえ、やはりたかが中学生の子供の言うことに振り回されてしまっている自分がはがゆく、許せなかった比佐史は、何度か約束の日、遅く飲んで帰った。
 しかしそんな比佐史を待っていたのは酷い責めだった。どんなに遅く帰ってきても、彰は寝ずに待っていて、セックスを強要した。彰の若く盛んな欲はそういうとき果てしなく、比佐史をねじ伏せるようにして自分本位に進められた。どんな制止の言葉も聞こえてない。
 そして比佐史は後悔するのだ。彰は子供だけど、身体は大人…むしろ世代の違う自分より、遙かに体格はいい。逆らうと自分がつらいだけ…ある意味慣らされていっているのかも知れない。でも引っ越しさえ済ませてしまえば、自分は楽になれるはずだ。
「ごめん。引っ越ししたら、いつでも付き合うから、」
「約束よー?」
「うん。約束約束」
「湯浅さん、じゃ今日はオレと2人で……」
「ごめんねー私も今日はちょっと」
「エー?それって穂積君がおれよりいいってこと?」
「さあね~じゃ、また!」
 そう念押しし、湯浅は自分の部署へ戻っていった。

 しかし自分は本当に引っ越すのだろうか――?
 何も記入されていない書類を見ながら、比佐史は改めて自分に問いかけている。
 彰にばれてしまった。ばれてしまった後気付くのもまぬけだったと思うが、黙って引っ越したとて、彰は母親に比佐史はどこへ出ていったのか、訊ねるだろう。そして比佐史は、言いたくても『彰に引っ越し先は教えるな』とは言えない。理由がないからだ。あっても言えない理由しか…すると彰が自分の所を訪ねてくるのはそう遠くはない。それでは元の木阿弥なのではないか。むしろ親の目のない比佐史の家は、より一層誰憚ることなく関係を密にする場になりはしないか。
 いや、今の家と違い、自分しか鍵を持っていない1人暮らしなら、幾ら彰が来たとしても、入れなければいいだけのこと。やはりおれは引っ越すべきなのだ。比佐史がそう結論つけ、いつの間にか伏せていた瞼を開くと、丁度定時も過ぎたらしく、何人かの「お先に失礼します」という声が飛び込んでくる。
 比佐史も今日はこの後の仕事の予定はないため、重い気分で営業日報を定型的に纏めると、机の上を整理し、立ち上がってカバンを出した。
 そのとき、なんとなく溜息が漏れた。
「なんか悩みあるんなら、相談乗るぜ?」
 するとまだ日報と仕事の整理に追われている田島が横から声をかけてきた。比佐史は思わず田島を見下ろす。
「え……別に…」
「ないことないだろ…?さっきから溜息多いし、引っ越しだって…なんかワケありだろ。さっきから用紙見て溜息ばかり」
「そんなこと、ないけど…そう見えるのか?」
「……」
 見えるも何も。田島はちらりと比佐史を見上げて思う。特にどこがと言うわけではないが、比佐史には不思議な影がある。どっちかといえば凹凸のないきれいな卵形の顔で、幼いとも言える顔立ちで、身体も顔に似合った体つきで…そんな要素はなさげなタイプなのだが、妙に影があるのだ。それがふっとしたとき、…今の溜息などに強く翳り、不思議な艶も帯びる。
 田島はときどき、それにどきっとしてしまうことがあった。
 だから後ろめたくて、そんなことは言えないのだが。
「……なら、いいけどさ。今度飲みに行こうや。……どのくらい前なら、予約入る?一週間前?3日くらい前でも大丈夫かな?」
 比佐史はくすりと笑うと、
「そんな、たまたま今日はだめなだけで、当日でも大体空いてるよ」
「そうかァ~今までだって結構フラレてきてる気がするけどな。オレ」
 田島は疑うように目を細める。
「フラレてるとか、彼女とか…ほんとにいないんだ、何でもないんだ。甥っ子の勉強見てやる約束してるだけだから」
「へえ~…」
 田島はそこで切ると、ニッコリと笑いかけ、
「いいおじさんなんだな、穂積」
とボールペンを指で回しながら言った。比佐史はその屈託のない笑顔に曖昧な笑顔で答えると、「じゃ、お先に」と席を離れる。
「お疲れ」
 田島はその背中に声をかける。そして思う。
 ――ヤバかった…何が、って気もするけど。ゾクッときた。なんであんな顔するんだろう、穂積……
 これは絶対飲みに行かないと、と何故か決心を固める田島だった。

 比佐史はそのまま真っ直ぐ家路を辿り、最寄り駅前の商店街を重い足取りで歩いていた。辺りはもう暗くなっている。まだまだ日暮れは早い。
 彰はあの夜以来『なぜ引っ越すのか』『なぜ自分に黙って探していたのか』と執拗に訊ねてくる。
 今日も家に帰ってからの長い時間、ヤラれてるか訊ねられてるかどっちかなのだと思うと、自然溜息が漏れ、ゾクリと身震いした。
 ――、あと少し、あと少しの我慢だ――
 俯いていた顔を上げ、また息を吐こうとしていると、
「比佐史さん。比佐史さんじゃないすか」
と、若い男の声がした。声変わりは済んでるけど、まだまだ幼さの残る少年特有の声。その声には聞き覚えがあった。比佐史は声の方を振り向く。
「あ、君……」
 そこに立っていたのは、ブレザー姿のひょろりと背の高い学生だった。真っ黒な彰と違い、少し茶色くした長目の髪。小さな頭、痩せてるけど広い肩幅、長い手足。自分よりはずっと発育がいい。たしか彰の友達の少年だった、と比佐史は記憶を辿る。
 その少年が、比佐史と目が合うとニコッと笑い、だらしなく立っていた背をしゃんと伸ばした。
「丹沢です。お久しぶりです…憶えてくれてましたか?」
「ああ……」
 笑いかける少年とは裏腹に、顔を逸らす比佐史。
「憶えてるよ。……大きくなったね。君」
「あ……憶えちゃって…ますよね。すいません。おれあれからずっと謝りたかったんですけど、彰が会わせてくれなくて…」
「……そういや彰は?」
「とっくに帰っちゃった」
「君は?」
「ゲーセン」
「今まで……?」
 比佐史は呆れる。そしてもう一度隣の少年を伺う。彰と同じ中学生の姿。しかし彰と同じく自分より背が高い。肩幅も広い。いや彼と比べると彰は少し背が低くて、その変わり痩せてはなく適度に筋肉が付いていて、男っぽくて…と思っていると制服姿でなく艶やかな裸を思い浮かべてしまい、比佐史は身体と顔を熱くする。頭の中で脱がせてしまったことに自己嫌悪を憶え、うなだれる。
 それにしても中学生、臙脂のネクタイも今は崩しているが似合っている。自分が初めてネクタイを締めたのはいつだったろう…大学の入学式?とまた視線を向け、意識を飛ばしていると
「何?」
と見られて不審がる少年が訊ねる。
「ああ、いや…制服がかっこいいなあと思って。おれは詰め襟だったからさ…古いだろ」
「ふ~~ん」
 少年はじろじろと比佐史を見、
「でも、詰め襟もいいと思うよ?こんなブレザーより、いかにも制服、学生の時しか着られねーって感じするじゃん?セーラー服とかさ…比佐史さんの学ラン姿って、凄い初々しくてカワイイ感じする」
「な……、オトナをからかうな、」
「えー。からかってないけど。…一応すみません」
 そしてペコリと頭を下げる。
「今の子は体格がいいから…」
「……」
 暫く沈黙が落ちる。少年が突然足を止める。つられて比佐史も止まる。
「……彰とさ、まだ続いてるんですよね…」
「……」
「おれ、彰とは、早く手を切った方がいいと思う…あいつはあんな酷いヤツだし…っておれが言えねぇけど。でもおれはずっと謝りたかった…」
「言うな、」
「比佐史さん、辛そうだもの。あんなヤツの言いなりになんて、なることない…アイツだってもてるし、それに、やっぱ身内はまずいっしょ」
 そして丹沢は比佐史の目を見て。
「おれ、比佐史さんのこと結構好きなんですけど、どうですか…?」
 比佐史は余りのことに固まって声も出ない。頬だけが、冬場みたいに熱を帯びていくのが分かった。




END

フィーリング行き当たりバッタリ小説。第3弾。やっと比佐史君の名字が決まりました…てな設定の固まり具合(汗)仕事は何をしてるんでしょうねぇぇ…業種を固め切れなかった……のくせに、キャラだけは増えていきやがる…いや当初からの決めてた配置の人達なんで。今回は、彰が、出てないよ…過去話(エロ)まで行きつかなかったし。前回同様エロつーエロがないのですが…多分次回(いつか未定)は過去から始まる…大体予想が付きますか?アレっす、アレ(笑)

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