お正月

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 山間の静かな温泉郷――
 そこは隠し湯といった風情の一件宿だった。
 正月シーズンだというのに賑やかな泊り客もおらず、常連と思える老齢な夫婦連れなどちらほら見掛けるばかり。
 かと言ってうら寂れている訳でもなく、喧騒から隔絶した瀟洒な趣が漂っていた。
 「良いお湯でしたね」
 若島津はまだホカホカと湯気が立ちそうに温もった身体を、わずかに冷気の差し込む窓辺に寄せて「ふう」と息を吐いた。
 水滴に曇ったガラスの向こうは、河原から上る蒸気と雪煙に一層白く霞んでいる。
 宿の下を流れる川辺に掘られた露天風呂に、今しがた小一時間ほども浸かってきたばかりだ。
 広い風呂はほとんど貸切で、この機会にとばかりつい長湯をしてしまった。
 「そんなとこにいると湯冷めするぞ」
 宿の浴衣一枚纏った姿で景色を眺めている若島津に、日向が羽織りを投げて寄越す。
 「大丈夫ですよ。あんたこそ、それはさすがに寒くないですか」
 同じ浴衣を着込んでいる日向を見遣り、若島津はちょっと苦笑いした。
 日向はお決まりの恰好に、浴衣の両袖をご丁寧に肩まで捲り上げている。
 「うん?これでも暑いぐらいだぜ」
 と、さっき若島津が折角着付けてやった裾も崩してしまっていた。
 若島津には暑いと言う程でもないが、広い和室は年季の入った石油ストーブで温められ、火鉢に掛けられた鉄瓶が音を立てている。
 見た目にも暖かな設えや正月用に飾られた床の間に目を移し、改めて若島津は満足そうに呟いた。
 「オレ達には勿体無いくらいの宿ですね」
 「ああ。さすが香さんの紹介だけあるよな」
 最近日向はどこに行ってもマスコミやファンが放っておかず、みっちりと詰まった練習や副業のスケジュールの合間を割いての休みだというのに、落ち付いて過ごすことも出来なかった。
 そんな日向を見かねて(取材だ撮影だと山ほど予定を入れたのは当の本人だが)休暇の最後くらいはと、顔の広いことでも知られる敏腕女史がとっておきの穴場を手配してくれたのだ。
 人目を気にせずに寛げ、もてなしも最上級で全く申し分ない。
 「でも日向さん。どうせならオレを誘ってくれるより、オバさんや尊くん達と来ればよかったのに…」
 短い休みの中家族を差し置いて日向との時間をもらってしまうのは、些か申し訳ない気がする。
 「皆とは家で一緒に正月を迎えられたし、初詣も行った。一日くらいおまえと二人ってのもいいだろう」
 年末は若島津も天皇杯もあり、ゆっくり会える暇もなかった。
 「来年は多分日本で正月も過ごせねぇだろうから――と思ったんだが、迷惑だったか?」
 “だからこそ余計に…”とも思いつつ、若島津は首を振った。
 「…いいえ、嬉しいですけど」
 「だったらのんびりしようぜ」
 「はい」
 あとどのくらい日向とこうしていられるのだろうと考えると沈み込みそうな気持を払い、ニッコリと頷いてみせる。

 朗かで感じの良い仲居さんが、続きの間に夕餉の膳を整えてくれた。
 「さて、まずは一杯やるか」
 日向は胡座を組んで、当然のように卓に並んでいたお銚子を取り上げる。
 「待ってください、なんで酒があるんですか」
 宿の者もまさか二人が未成年とは思わなかったのだろう。
 「堅いこと言うなよ。おまえも呑め」
 すでに手酌でやりながら日向は銚子を突き出す。
 「日向さん、なんだかオヤジくさいですよ」
 だらしなく着流した浴衣といい杯を呷るさまといい、いかにもそれっぽい。
 「なんだよ。おまえこそ、その歳には見えねぇって」
 若島津はごまかすように笑って、“今日くらい羽目を外してもいいかな”と、杯を差し出した。
 いつものようにサッカーの話題や、お互いの近況など笑いを交えながら語る。
 そのうち日向は、若島津の口数が減ってきたのに気が付いた。
 よくよく見れば若島津は普段以上に穏やかな微笑を浮かべているものの、どこか目元がとろんとしている。
 「もう酔っちまったのか?」
 学生の頃のご愛嬌で、隠れて寮に酒類を持ち込みチームの連中とこっそりやっていたこともままあったが、若島津は結構強いほうだと思っていた。
 久々に日向と二人きりでリラックスしていたせいか、知らず杯を重ね過ぎていたようだ。
 「え。あーそういえば、ちょっと…」
 若島津はほんのり火照った顔に頬杖を突き、片手で暑そうに浴衣の襟を広げハタハタと風を送った。
 肌に残るの湯気の香がふわりと広がり、わずかに覗いた本来白いはずの胸元まで淡く紅に染まっている。
 前屈みでちょうど目に飛び込んできた姿態に、日向は不覚にも背中の筋を震わせてしまった。
 もちろん冷えてきたとか、悪寒の類では決してない。
 その証拠にぞくりと痺れが突き抜けた後、身体の中心が一気に熱くなってきた。
 (――マズイ。そんなつもりはなかったんだが)
 慌てて視線を外してみたが、風呂上がりで結い上げたままの髪が解れかかる項や、普通は隠れて見えない耳が桜貝のように色付いた様子、濡れて艶やかな唇、そんなものがやけに目を引き付け……
 動悸がするのは酒のせいだと、今更自分を言いくるめようもない。
 (マジでやばいかも…)
 若島津とはそういう関係がない訳でもない。
 ない訳ではないのだが、若島津は変に(普通程度かも知れないが?)雰囲気にこだわるのだ。
 特別な日とか朝からさり気なくアピールを続けてやっとだったり、単に言い逃れの材料にされているだけかも知れないが、口説き落とすのになかなか手を焼く。
 酒の勢いで――、なんて言って許してくれる訳がない。
 (それじゃ下心ありありだったみたいだしなぁ)
 今日はのんびりしようと言った手前、おおいに後ろ暗くもある。
 しかしこんな機会はそうあるものではないし、素直な自分は引っ込みも付かない有り様になってきている。
 仕方ないと日向は腹を括って、こうなったら若島津をとことん酔い潰すことにした。
 ようは口答え出来ないようにしてしまえばいいのだ。
 日向は気付かれないように、若島津に勧める酒の量を増やしていった。
 疑われてはまずいので日向のほうもかなり返杯を受けてはいるが、小学生の頃からバイトの屋台で客からお流れを頂戴していただけに、酒には自信があるのだ。

 「日向さん、もうダメ。勘弁…」
 ついに若島津は白旗を掲げて、ころんとその場に寝転んでしまった。
 「コラ、そんなところで寝るなよ」
 日向は“やっとか”と腰を上げ、ペチペチと若島津の頬を叩いた。
 寝られちゃ困る。
 (いくらなんでも寝込みを襲う気はないし――)
 「う~ん…」
 抱え起こした身体は、無防備に日向に体重を預けてくる。
 若島津は潤んだ瞳を薄っすらと開き、切なそうに日向を見上げていた。
 「――日向さん」
 呼ばれ吸い寄せられ、日向は甘い芳香を含んだお互いの息を熱く溶け合わせた。
 そろそろと若島津の腕が上がり、日向の首に掛けられ――たと思った途端。
 「いてててて!」
 日向は大げさな悲鳴をあげていた。
 いや、気付いた時には若島津に体勢を入れ替えられ、腕と首筋をなんだかよく分からない角度に絡め取られていたのだから、決して大げさとは言えないかも知れない。
 (空手なら分かるが、なんでこいつが締め技?)
 と、そんなことを考えている場合ではない。
 「日向さん~、なーんのつもりですか。オレが“あんたと会えなくなったら寂しいな”とか、しんみりした気分になってたのに~」
 「いや、その――。悪かった、悪かったから!離してく…」
 振り解こうにもキッチリ技が入っていて身動きが取れず、日向は辛うじて動く足で必死にタップした。
 「動くとよけい痛いですよ」
 真顔で言うからなおコワイ……
 (…酒乱だ。酒乱だよこいつ~;)
 長い付き合いだが、ついぞ知らなかった。
 と、変な感心をしている場合でもなく。身から出た錆とはいえ、この状況は余りに哀れだった。
 だがふいに締め上げる力が縋り付くようなそれに替わり、背中で若島津の声が震えた。
 「日向さん…」
 「――若島津?」
 「……――――ます…」
 「オイ?」
 するりと腕が外れ、日向が振り返ると若島津はすでに微かな寝息を立てていた。
 (……若島津)
 日向はすっかり冷めてしまったほろ酔いの替わりに込み上げてきた暖かさを、若島津ごとぎゅっと抱き締めた。
 「分かってる。だからおまえも――オレがいなくても頑張れよ…」
 ちょっといけないことを思ってしまった自分を反省しながら、日向はそのまま布団に潜り込み、若島津の温もりを感じながら眠りに就いた。

 翌朝。案の定若島津は何も覚えていなかったというオチが付くけど、最高に暖かなお正月だった。


<了>

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