幾つもの夜を越えて

 こういう時、誰かにいて欲しい…。
 一人が堪えられない夜、誰かとただ、黙って空間を温めていたい。
 黙って、人の温もりだけを感じていたい。…それは、別にその行為を求めているわけではなく。
 ただ、純粋な意味で、誰かに支えていて欲しいのだ。

 しかし、自分は、そういうことを言う資格は持たない。
 なぜなら、拒絶したのは、自分…。
 酷い仕打ちをしたのは自分の方。
 自分への戒めのためにも、そんなことを自分から言うことは出来ない。
 そんな都合のいいこと、出来ない。

 そう思ってしまうのは、自分が真っ先に思う相手が、彼だから。
 彼しか、思い浮かべられない、というのは、あることを示していて、酷く不快だ。
 それは、自分で拒絶した答えなのだ。

 でも、この身を、心を切り刻まれるような耐え難い孤独感。

 誰かが、それを受け止めてくれるなら…

 彼は緑が丘荘の自分のフラットのリビングで、ソファに凭れながら続けて何本目かのタバコに火を点けた。  事件が解決し、また己の浅ましさに嫌気がさし、この世から消えてなくなってしまいたいと思う瞬間がまた来てしまったのだ。
 こんな酷い気分に陥るのなら、やめてしまった方が精神安定上いいと常々思うのだが、何故かほとぼりが冷めるとまた、事件の中でも猟奇で、より陰惨なものを求めて行ってしまう自分がいた。彼にはもう、不治の病なのだということも分かっている。業というべきか。
 ――おれはやっぱり、血の匂いが好きな男なのかな…。
 時折彼は、自分が血の匂いに吸い寄せられ、血を吸って生きる吸血動物のような気さえした。
 汚れた自分――。
 そんな自己嫌悪の中、縋るように温もりを辿る思考の先には、必ず彼がいた。しかし、その度指先の感覚がなくなったように小刻みに震え、冷たくなるのは、それが手に入れられない、入れてはいけないものだと決めたから。
 会わなくなって、連絡を取らなくなって、何ヶ月が過ぎたろう。
 自分も忙しかったし、きっと彼も忙しかったのだろう。
 それに、もう、いい加減目が覚めたのかもしれない。
 いいことじゃないか。それがおれが望んでいたことなのだ。
 彼はそう思いつつも、釈然としないわだかまりの正体を、突き止めることがイヤだった。
 答えはもう出ているような気はしている。でも、…
 相変わらず痺れた指先を自分の身体とは思えないくらいのぎこちなさで動かすと、彼はデスクの受話器を取った。
「………」
 しかし、なかなかダイヤルを回すことが出来ない。急に我に返る瞬間。
 そこまで、おれはしたいのか?そして、電話して何て言うつもりだ?まさか、無言電話でもあるまいに。
 …彼は、忙しい身なのだ。そんな迷惑なこと、できない…。
 彼は、受話器を置くと、酒を飲み始めた。何も考えなくて、いいように。何も考えない内に、眠れるように。
 こんな夜が、もう何年も、何回も続いているのに…。

 もう一つ、彼には電話する手を躊躇させることがあった。
 二度、そういう関係になったが、どっちも自分から水を向けた結果だということだ。本当はああいいながらも、風間は自分のことをそう欲してはいないのかも知れない。
 また、ここで電話して、
「来て…」
 などと、どの面下げて言えるのか。愛を拒絶しているのに、なんと裏腹な行動。
 自分のそんな矛盾する行動に風間が思い至る日はいつだろう。そのとき暴かれる嘘が、彼は怖かった。
 ああ、彼が電話してきてくれたらよいのに。こういう不安な夜に。
 彼がそう逡巡しているときに、不意に目の前の電話が鳴った。彼は心臓が縮み上がらんばかりにびっくりすると、一瞬身を逸らしてから受話器を取った。
 彼は高鳴る胸を押さえて出ると、次の瞬間、
「なんだ、警部さんですか」
と溜息と共に実に失礼な言葉を発していた。受話器の向こうでは豪快に笑う声。
「なんだじゃないでしょう、金田一さん。あんたがまた、気になる風情だったからこうして電話差し上げてるんじゃないですか」
「気になる風情って、何が」
 わざと言ってみる。
「事件が解決したからですよ。またどっか消えてしまいそうにふらふら生気のない顔でお帰りになったじゃありませんか。本当はお付き合いしてそんなあんたを見張っていたかったんですけどね。なかなか事後処理に手間取って」
「そんなこと、…子供じゃないんだから、気にしていただかなくても、結構ですよ」
 口ではそういいながらも、等々力警部の温かさに、冷え切って、暗いところに入り込んでいた彼の心も温かく脈動し始めたのを感じていた。
「まだまだ落ち込んでるみたいですね。今からお邪魔しましょうか」
「いいえ、結構ですよ。どうぞ家族サービスに努めて下さい。…でも、有り難うございます。お陰でなんとなく救われましたよ。独りってのは、こういう時、やっぱり…」
と、独りの侘びしさをくどくどと漏らしそうになるのを途中で止めた。しかし、警部は、
「あなたも結婚なさるべきですよ。というかあなたは誰か繋ぎ止めて、支えてやれる人が必要ですよ。そういう人が居たら、私だってこんなに心配する必要はないんだ。いい加減年貢を納めちゃどうかね?いい人、いないの?」
 これにはさすがの耕助も、苦笑いするしかなかった。
「あいにく…。ほんとご心配かけてすみませんね」
「あんた…ううん、あんたが何と言ったって、今から行きますよ。行きますから寝ずに待っててらっしゃい。いいですな?」
 有無を言わさぬ調子でそういうと、返事も聞かず警部は電話を切った。
「ちょ…!警部さん?」
 耕助もまた溜息をつきながら受話器を置くと、くすりと笑った。
 こういうことは、初めてではない。松月を出て居を移してからも、何度もあった。どこかに呼び出されたり、急に来てみたり、パターンは色々だったが、その度に警部の気遣いが分かるものの、「結婚は?」という説教もセットになっていることが多かった。また今日もそれか…と苦笑い。
 それでもなんとなく心待ちにしていると、それから三十分くらい後に、チャイムが鳴った。やれやれ、と思いつつ、
「いらっしゃい。全く、あなたには負けますよ」
とドアを開け、耕助は固まってしまった。
 そこに立っているスーツ姿の男は、警部ではなかった。良い生地のスーツを嫌みなくすきなく着こなした、すらりとした男。その男が、どことなく緊張した面もちで黙って立っている。
「風間…何で?」
 かろうじてそれだけ喉の奥から絞り出すと、風間は、
「なんでって、…警部さんから電話があったんだよ。君が大変だから、行ってやって欲しいって。どうかしたのか?君」
「どっ、どど、どうって…イヤ別に」
「取りあえず、中に入れてくれないかな。せっかく来たんだし」
 耕助は身体をよけて道を空けると、風間を通した。風間は中に入ると、少しきょろきょろし、
「あんまり変わってないな」
と言って上がった。
 あの夜から、もう幾つかの季節、年月を越えた。でも、今もあの夜の痛みや熱さをまざまざと思い出させる。
 耕助は、今一番欲していた人物を迷わず送り込んでくれた警部に感謝するとともに、なんでこういうセレクトをしたのかということを考えると、空恐ろしい気もした。
 ――まさか、気付いている…?そんなこと一言も言ったこと、ないつもりだけど。
 風間の広い、均整の取れた背中に目をくれながら、そう思うと、扉の鍵を閉め、台所へと行った。
「君が一人で酒を飲んでいたのか。そりゃちょっと大変かも知れないな」
 風間がソファに座りながら、そう言った。
「警部さんは、何て?」
 風間の分の猪口と、あり合わせのつまみを持ってくると、自分は向かい合って座る。
 風間は笑い、
「うん?さっき言った通りだよ。君が大変だから、行ってやってくれないか、…自分が行ってやりたいけど、あいにく忙しいからって。とにかく今誰かが付いていてあげないと、君は駄目なんだ、ってさ」
「それで君は、来たのか」
「来ない訳にはいかないだろう?そんな気になること言われちゃ」
「仕事は?」
「ちゃんと終わったよ。ご心配なく」
 ――一体なんだって、警部さんはそんなこと…、絶対それは、嘘だ。これは、計画的だ。
 そんな思いがぐるぐると頭の中を回りながら、耕助はただ黙って、風間を見ながらさしつさされつやっていた。
「あの夜以来だな」
 風間が不意にそう言った。
「イヤその前に、何がどう大変なのか、聞いておかないと」
「別に義務はないぜ?」
「これからの参考資料さ」
 風間が目を見て笑った。耕助もつられて笑う。
「まだそんなこと…って言わないのか?」
 無言でいた耕助に、風間が言った。
「今更…言う気もなくなった、てとこかな…」
 本当はそんな強がりも出ないくらい、今の自分は弱っていたのだ。差し伸べられる優しい手を、拒絶する力は今は無かった。そのほろ苦い言葉を聞いて、風間は、知ってか知らずか、
「フーン」
と言う。
 知って欲しい。でも、知られたら終わり。
 耕助の中でまたジレンマが始まった。このもどかしい関係を象徴するような、間にあるテーブルを越えて、その温かい身体に自分の身体を預けられたら、どんなに楽だろう。今だけなら、許されるだろうか…



「事件が解決するとさ、…どうしようもなく、自己嫌悪に陥るんだ…今、まさにその最中、ってとこなんだ…」
「事件が解決するってのは、すっきりするもんじゃないのか?犯人が捕まって、さ。永年の付き合いで、そんなこと初めて知ったぞ」
「別に言うほどのことではないと思って。…おまえは心配性だから、余計なことで心配かけたくなかったし。それに、これはおれの仕事の一部みたいなもんだからな…毎度付き物の。仕事のことは、言っても仕方がないし。何を言ったってムダだぜ。おれはこれ以外に出来ることなんかないし、取り柄がない」
「耕ちゃん…」
 風間は目の前の、痛々しい耕助を見ると、
 ――これだ…。
 と思わずにいられない。自分を惹き付けてやまないものの正体。
「おれは、血を吸って生きる人間なんだ…」
 心の奥底から絞り出すような声。耕助は、俯き、うめいた。
「何の関係もない、人の血肉をすすって…、勝手に割り込んで行って。事件が解決できたからといって、何になるのか。死んだ人は、帰ってきやしない、崩れた絆も、元通りにはならない…おれのやってることは、ムダなことだ、とどこかでささやく自分がいる…」
 酔いが回ったのか、完全に自分の腕の中に顔を埋めながら、彼は続ける。
「おまえは、いいよ…実に建設的だ。健康的だ。眩しいくらいさ。健全に人生を歩んでいっている。その健全さが、見るからに明るいおまえを形作っている。でも、おれは、病的だろ。それはおれの精神のせいさ。おれのやってることなんて、非生産的もいいとこ。人の後ろ暗いところばかり、なぜ見たがるのか…浅ましさに、毎度いやになるけど、やめられないのさ」
「耕ちゃん、でも、君はもうこの道では第一人者なんだ。それは、皆に求められているから、だろ。依頼あっての仕事じゃないか。それは人の役に立つことなんだよ。自分をそんなに責めちゃ…、君はおれなんかには到底及びもつかない、凄い男じゃないか。…おれの代わりは、この世の中に、ゴマンといるさ。でも、君の代わりは、いやしないんだぜ。もっと、自信を持てよ。…君は、繊細すぎるきらいがあるね」
「おれが、繊細…?」
 壊れそうな心を抱えて、一人でうずくまっている姿。今まで自分には押し隠していたに違いない、弱い部分。
「どうしてそういう姿を、もっと早くに見せてくれなかった…」
 耕助の血を吐くような告白に、今度は風間が、うつむいて溜息をついた。
「見せたくなかった…出来たら、一生」
「一生そうやって苦しみ続けるつもりだったのか?」
「そう…」
 風間には悔しくてそんな弱みを見せたくなかったから。いや、そうではない。
 どうしたってぬぐい去ることの出来ない思いだから、自分を思いやる人に感染させることしか出来ない思いだから。風間には感染させたくなかったから。
 また、こんな結論をおれの頭は導きだすのか…耕助は苦々しく思わずにはいられなかった。
「もっと、苦しめばいい」
 耕助は何を言われたか分からなくて反射的に上を向いた。
「おれの目の前で…おれにも、その苦しみを分けてくれたら、君が抱える分は、減るだろ?なんだったら、当たり散らせばいい。おれは、君の全てが欲しい。だから、苦しみも欲しい」
 風間はそう言って微笑みかけた。耕助は呆けたようにその顔を見ていた。
 敵わない。いつだって優しく、包み込んでいてくれる妬ましいほどの大きな男の包容力。
 耕助はまた腕に顔を埋めた。
「卑怯だよ…」
「何が卑怯なんだ」
「欲しい欲しいって、口だけでさ…」
 そのとき、風間の身体の中で、何かの歯車が噛み合った。そして、それがゆっくりと回り始めた。風間は黙って立ち上がると、耕助の横に座り、肩を抱き寄せた。耕助は、されるがままに風間の腕の中に収まった。
 耕助は自然と縋り付いていた。風間はそんな耕助に驚きながらも、ごく自然に唇を重ねた。全てを溶かすように、深く、深く…耕助もためらうことなく、熱く応える。
 ――やっと、欲しかったものをくれた…。
 耕助は後も先もなく、今だけに全てを賭けた。
 初めて能動的に動く耕助に今までにない手応えと充足感を感じながら、風間は耕助をかき抱く。
 それは、幻なのか、現実なのか。
 好きと自覚してから、幾つもの夜を越えて、やっと辿り着いたのか。

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