冬の山陰

 耕ちゃんに会いたい、見たい、しゃべりたいという時は過ぎた。
 おれの足は少し遠のいていた。もう、それだけじゃ堪えられなくなったからだ。別 に抱きたいとかそんなんじゃない。ただ、好きだということを隠す自信が無くなってしまったのだ。隠してはぎこちなくなる。
 何かしゃべれば、そのことが言いたくなり、口が重くなる。
 話さなければ気まずい。それだけのことだ。会わなければ、思い出さなければ済むのだ。
 おれは彼を前にして“普通”に振る舞うということができない。もう何が普通なのかも思い出せないくらいだ。
 ああ、一人の時の何と気楽な事か。誰もおれを見ていない。おれは耕ちゃんのことを考えなくても済むし、考えても構わないのだ。誰も知らないところで行われたことは、何物かを生み出さぬ限り、何もなかったと同じなのだ。おれがどんなバカ面をして耕ちゃんを想い、笑み、額にしわを寄せようとも、耕ちゃんですらおれがそんな時を紡いでいたと当てることは出来ないだろう。無論、彼はそうとしか考えられない状況でも、そうとは思わないだろう。彼はそういう点ではてんで自分に自信を持ってないからだ。だからおれはほっとしもするが、一層いらいらする。いっそ気付かれてしまえば、多分おれは開き直ることも出来るはずだ。
 要はきっかけだ。しかしおれは自分から言うつもりは、いや、言うことは到底出来そうもないってことだ。一笑に付されるのが怖いのか、二人の間が悪い方へ変わるのが怖いのか…おれは維持できるだけ現状を維持していってしまうんだろう。つらいと感じながら…
 おれはマゾじゃないと思うと、もう一つ腹が立ってしまうのだ。
 こうなってしまえば、会わないときが一番気の休まる時間なのだ。

 …それなのに、旅行に誘ってしまったというのはどういう訳だろう。
 二人の時を共有したかったのだ。共有できそうな相手は、彼しか考えられなかったから。
 病膏肓に入る、アバタもエクボだな…。おれはもう、彼の欠点も見えなくなってしまった。彼を客観的に眺めることが、出来なくなっている。
 誰もいないところでなら、おれは少し正直さを取り戻すことが出来るかも知れない。彼とのいい思い出を一つ積み上げることが出来るかも知れないからだ。
 バカな恋をしていると自分でも思う。なんであんな奴が好きなんだと自分の中の一人が言う。少し前まではそいつの言うことが尤もだった。なのに今そいつは金切り声で叫んでも、おれの中のその他大勢は、そいつらの名前は多分感情とか身体とかいうんだろうな…誰も今や聞く耳もっちゃいないのだ。ただ、困るだけだ。

 雪の山陰、ロマンチックすぎて、何か期待してしまうね…



 ぼくは何だか、最近、風間という人間が分からなくて、少し困っている。急に黙ってしまったり、何か言ってもすかされたり、無視されることが多くなったからだ。冷たい。
 ぼくのことに感心が無くなったのでは、平たく言えばキライになったんでは、と思ったり、風間が知らない人間に見えたりでいきおいぼくも他人行儀にならざるを得ないのだ。そのくせ、時々やたらと機嫌のいいときがあって、吸い込まれそうな眩しい目でぼくを見て、とてもおしゃべりに変身してしまったりするのだ。
 そういうときはぼくもつい心を許してしまう。
 その上、彼は親切になる。ぼくはそこに甘えてしまう。
 そして必ず、機嫌の悪そうな時がある。その度ぼくは翻弄されてしまうのだ。ぼくははっきりいって気疲れしている。
 そんな風間の機嫌のいいときが誘った冬の旅は、或いは彼が今日にも機嫌が悪くなり断ってしまうという気がした。
 しかし彼は断ってこなかった。ただ、詳しい日程が、手紙で送られてきたのが、既に上機嫌が崩れかけてきていることを知らしているような気がした。
 ぼくは旅に対して憂鬱だった。



「山陰はいいよな」
「いいって、何が?」
「何ていうかさ、秘めやかで浮世離れした所ってイメージがあるのさ。雪が降ってりゃ余計にそうだね。景色もいいところが沢山あるし」
 昭和二十六年、二月。車窓は既に京都を超えて山陰へと入っていた。彼らの故郷ほどではない、程良い雪が一面を覆っていた。
「雪は、いいよな…全てを覆い隠す。日々の日常の汚い部分を…」
 風間は車窓を横目に言った。
「だがその雪はほっとくと家を潰したり生活を圧迫するぜ。見た目ほどじゃない。良く知ってるはずじゃないか」
 耕助は切り返した。
 彼らの郷里は、更に雪深い東北だ。雪の大変さは、身に染みて知っていた。
 風間はシニカルな笑みを浮かべた。
「ああ、嫌という程ね…」
 ――雪は理性だ。その下にあるのはおれの醜い欲望や感情。おれの心に降り積もる理性の雪は、膨れ上がりそうな欲望を既に圧迫している。それでも止まず成長する欲望に、更に押さえつけるために、降り積もらせる理性の重圧。ギシギシといやな音を立てて軋みながら、まだ潰れずに堪えている家。それがおれだ。
 旅行は耕助の思いの外楽しく過ごせた。風間の、ぴりぴりとはりつめたささくれだった神経は影を潜め、彼は本当にリラックスしていた。二人は寄り添って話し、寝た。知る人もいない静かな湯治場は、風間の心の緊張を解いた。
 しかし、明日帰るというその日、風間はまた少し不機嫌になっていた。
 その日二人は鳥取砂丘へと足を伸ばしていた。足下で風が砂を飛ばしていた。ところどころに生えた松が鳴っていた。
 二人は頂上までたどり着くと、海の方へ向かって座った。
 風間はまた黙りがちになり、少し上の空だった。
 ふと耕助は、この五泊六日の間、女っ気が無かったことを思い出し、
「風間、欲求不満なんじゃないの?」
と問うた。その瞬間、風間は自分の奥底を見透かされたような心地がし、訴えるように耕助の腕を掴んでいた。
 固く強く掴まれた腕は耕助に何かを抗議していた。耕助は痛い程掴まれながらそれを感じていた。それが何なのか分からず、
「冗談だよ。機嫌悪いからさ、女のことでも考えてるのかと思って」
と言った。風間は無言のまま腕を引っ込めた。
 しかし、その指摘は痛いところを突いていた。彼は袋小路の欲求不満を持て余していた。その夜食事を済ますと、風間はふらっと花街に出ていった。
 耕助は旅館へ一人残された。いつ帰るかあてのない風間を待ちながら、十時を過ぎたので、朝には帰るだろうと床の中に入った。
 風間のことが頭を離れなかった。昨日までは昔の彼だった。いや昔の彼よりも優しかった。なのに、またこう逆転する。急にいらいらし出す…
 どうしてなんだろう、いつからかしら…彼は考えていた。
 おれが、何か悪いことをしたんだろうか。
「君が悪いんだ」
 いつかの風間の言葉が思い出された。あの頃、風間はよくその手の話に持っていって、自分を困らしていたっけ…と耕助は懐かしく思った。それから暫くして、風間は、不安定な、読めない性格になってしまったのだ。優しい瞳を思い出す。まるで恋患いだな…と思う。耕助ははっとなった。
 まさか、ほんとに、おれの事を…?彼はその考えを打ち消そうとした。
 どうして結婚しないのか、女に冷たいのか、…しかし、全てのことが信憑性を増して彼の前に現れるだけだった。
 強く握られた感触を腕が覚えている。その時の訴えるような目と。掴まれた腕から流入してきた彼の感情を耕助は目を閉じて思い出した。掴まれたところに、そっと手を触れてみた。
「君が悪いんだ。君次第さ。こんなおれをどうにかしてくれる?」
冗談めかしたその言葉が、今、耕助の上に重くのしかかってきた。
 …まさか、ね…。思い過ごしさ。…

 風間は女を買いに行った。体の中に溜まった欲求不満を流し去ると、どうにか頭も冷えた。
 やっと冷静になると、旅館へ彼は戻った。
 部屋の明かりは消えており、耕助は寝ていた。障子に映る雪明かりの中、彼は枕元で十秒位 耕助を見下ろしていた。そして布団の脇に座り込むと、今度は彼の顔を挟むように布団に両手をつき、間近に顔を寄せた。耕助が起きている間は決して出来ることのない接吻を、彼は交わそうと思ったのだ。
 触れるか触れぬ位の距離で唇を止めると、彼はまた熱っぽく耕助の寝顔を眺め続けた。きんと冷えた薄闇に浮かぶ耕助の顔は、青白く、寝乱れたくせ毛が額にかかっていた。ぴったりとつむられた瞼と、かすかに息づく唇が、冷ましたはずの風間の身体を熱くする。息がかかるほど、顔を寄せたあと、風間は身を起こした。
 今ここで口づけするのは、相手の気持ちも分からないので非常につまらないことであり、今の普通の中の異常を演じられなくなり、異常の中の普通を演じなければならなくなる引き金だと感じたからだ。
 今我慢をすれば、現状維持が出来るのだ…。
 風間は起き直ると、自分の寝床でさっさと寝てしまった。
 耕助は起きていた。風間が自分を愛しているのではと思い迷っていたところだったので、風間の気配を身近に感じた時、唇を奪われると直感的に彼は思った。暫くどきどきしていると、風間がすっと引いてしまったので、耕助は何だか分からなくなってしまった。
「おれ、何か寝言言ってなかったか?」
 次の朝、寝床の中で、風間が最初に言ったことはこれだった。耕助は何も聞こえなかったと答えた。その返事を聞いて風間は我ながら大した奴だと思った。よく考えたらこの六日間、意識のある間はともかく、いつ寝言でヤバイことを口走るかも知れなかったのだ。よく旅に出たものだ。
 それでも、夕べ、自分が怖かったから、酒は飲まなかった。飲んだら、何をしていたか知れなかった。
 風間は気持ちを整えると、起きて帰り支度を始めた。それはとても耕助を愛しているとは思えない、淡々とした姿だった。
 そんな彼を見ながら、耕助はやっぱり昨日のは自分の思い過ごしと考えていた。
 ――バカだな…そんな事あるわけないよな。自分を何様だと思ってるんだ。一瞬たりともそう思ったなんて、自意識過剰もいいとこ…。
 むしろ彼はおれを殴ろうと思っていたのかも知れないし。
 耕助は自虐的に笑った。
 ――おれには、彼のなすがままに任せるしかないさ――。
 こんなバカな思い込み、訊ねられない。
 彼は失恋しかしたことがなかった。
 彼は早苗のことと、虹子のことがあるので、自分が例え同性であろうとも、もてようはずがあるとは思えなかった。ある種の恋愛アレルギーであった。
 こうして耕助は、風間の思っていた通り、その考えを捨ててしまったのであった。
 ある種のしこりは残したが…。

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痛いオリキャラもいないし、恥ずかしい部分もないし、これはほっと安心できる作ですわ。

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