俊六と猫と二人のをんな -2-

 九時。
 風間は今日は午後からと言って奥へ引っ込んだ。おせつは離れで目覚めたとき、不覚にも寝てしまったことに、激しい後悔の念を感じていた。
「ちょっと、一体何やってんですか!」
 立候補して朝食を持ってきたおちか、誰も居なくなった離れで耕助にくってかかっていた。
「君こそなんだい、絶対きくって言ったくせに、全然きかなかったじゃないか、あの薬。何なんだあれは」
「陣痛の薬よ」
「じんつー?バッカじゃねえの。男にゃ子宮はありませんよーだ。信用して使ったおれが浅はかだったな」
 おちかは目を細め、口をとがらせ、
「あんただって、酔いつぶれてしまって、何の役にも立たなかったじゃない。全く、注意力散漫なんだから、先が思いやられるわ。あんたそれでも、ほんとに探偵なん?」
「なにおう?」
 イタタタタ、と耕助が頭を抑えた。おちかも寄って薬とコップを差し出した。
「これ飲みな」
「何これ」
「鎮痛剤」
「ほんとにきく?」
 意地悪く耕助は言った。おちかにさっと朱が走った。
「勝手にしたらいいわ!」
 耕助は苦笑して薬を飲んだ。おちかの目が、それを見てきらりと光る。
「飲みよったな」
「な、何だよ、」
「それ、ほんとは下剤や。出したらいいわと思ってな、下剤がいいんじゃないかと思ってん」
 おちかがけらけらと笑う。
「ゲー、」
「ウソに決まってるわ、アホウ」
「君ね、おれを何だと、…おれの方が年上、」
 耕助がちょっと怒った風に言ってみせると、
「年上らしさがないねん」
と意に介さずおちかはあっさりと言った。
「ところで、昨日の二人、どうやった?」
 急に話が飛んだので、耕助は一瞬キョトンとした。
「どうやったって…おれ全然知らないよ」
「ほんと頼んないなァ。そんなんやったら、あんたすぐ死ぬよ?でも、人間万事塞翁が馬やなァ。どうなることかとハラハラしてたんだけど…、あんた、旦那がなァ、ずーっと金田一さんのこと心配してついとってんで。おかみさんなんかいっこも気ィにかけんと…、だけど、どうにか上手いこといってん、」
「本当かい?」
 耕助はおかゆをすすった。
「あんさんをなァ、迷惑かけるけど、頼むて。頼りになるのはおまえだけやって、再認識しはってん」
「そりゃ良かった。全然知らなかった」
「あんた居とるのに、接吻までしてはってんで。堂々と…あっ、汚な!」
 耕助は思わずおかゆを吹いた。おちかはさっと夕べ耕助の額に乗っていた手ぬぐいを取り、布団や寝間着に飛び散ったおかゆを拭いた。
「んもう、手ぇかかるな、あんさんは…ほんま年上とは思われへんわ。ほんでな、どうももう一押し、旦那足りひんねん。おかみさんはごっつ積極的なんやけど…旦那に比べたらやけどな。それでもっと切羽詰まらさなあかん思うねん」
「と言うと?」
「第二弾や。もっと過激なのん」
 おちかは目をキラキラさせた。
「えーっ、そりゃヤバイよぉ」
 おちかが耳元でささやき終わると、耕助は叫んだ。
「すんねや」
 おちかは厳然と言った。
「でも、…」
「でももストもあるかい。うちはな、それでも心配なんや。最初っからやったけど、あんたが一番大事で、おかみさんは次や。他の女と変われへん。昨日かてそれはまだ変わってへんかった。金田一さんに神経全部持っていかれて、おかみさんはまるで女中やがな。…あんた、のほほんとしとってええんかい、それでええと思とんか。いっこも済まなんだと思わへんのか。あんた、居候してんねんぞ。ここに。どうしてそうぼーっとしとおんねん。この位やったらな、感謝の気持ちにならへんやろ?えぇー?恩返しならへんで。男やろォ。利子付けて借りは返さんかい!」
 おちかは流れるように押し寄せる波のようにぶちかました。
「ハイ…」
 耕助は圧倒されてしまった。
 ――うーん、確かに問題なんだよね。おれがおせつさんより大事にされてるって?
 数日後、おせつが外出した。女中頭のおちかは玄関で見送ると、離れへ飛んでいった。
「出たで、出たで、」
 おちかが障子を開けると、耕助は洋服を選んでいた。
「シナリオは出来たかいな」
「気が進まないけど」
 耕助はぐちゃぐちゃの紙を差し出した。
「私、いいように考え出えへんしな。金田一さんなら本職やで、いいのん考えてくれよるわ…」
「おちかさん、どう、分かる?」
 変装=洋装を済ませた金田一耕助は、色々ポーズを取った。白い開襟シャツにテーラードジャケット、少しダボッとしたツイードのズボンと、フェルトの帽子。これらは唯一和服で過ごせなかったアメリカ時代のものばかりだった。それ以来洋服というものを買ったためしがなかったのだった。おちかは呆然と見上げていたが、
「なんか…今日びそんなん、いてないなあ。ボンボンみたいやで。戦前の。なんかかわいいで。なんかもちっと怪しいいうか、強面風にならへんの?」
「マントでも着ようか」
「いらんいらん。変質者と間違われて通報でもされたらどないすんねん。インパクト強すぎるし、逃げる際あんた鈍そうやからあかん」
「勝手なことを、」
 耕助はサングラスをかけようとした。
「あかんあかん。悪目立ちする、やめときや」
「でも、おれってばれるんじゃない?」
「分からへん。じゅうじゅう気ィつけて」
 おちかは裏口から耕助を追い出した。


 街中をウィンドウショッピングしていたおせつは、ふと立ち止まった。
 どうも先ほどから背後に気配を感じるのである。
 ――誰か、付けてきてる――?
 目の前にあるウィンドウをそっと見つめる。しかし、怪しい影は見つからなかった。
 ――気のせい?
 ふっと息を付くと、おせつはまた気を取り直して歩き出した。
 耕助は自画自賛していた。内心得意気であった。職業柄尾行は得意だし、軍隊に居たのもそう昔のことじゃない。
 ――誰がニブイだ。
 三メートルほど先を歩くおせつが、銀行へ入った。
 おせつは、それとなく銀行の壁に填め込んである鏡を見た。見たことのない男が、自分を見、ニヤリと笑うのを見た。男はそのまま、銀行へは入らず通り過ぎていった。
 しかし、おせつはなんとなく気持ちの悪いのを払拭することが出来なかった。
「わたし、今日付けられたわ」
 おせつはその日、帰ってくると風間に電話した。風間は笑うと、
「気のせいじゃないの?」
「まっ、冷たいのね。あたしのこと、心配じゃないの?」
「おれに言うより、まず耕ちゃんに相談してみたらどうなんだ?そこは専門のはずだろ」
「勿論言ったわよ。それであなたに電話した方がいいって言うから、…」
「耕ちゃんは、何て?」
「まぁた金田一さん、金田一さんなのね。…もしかしたら、自分が原因かも知れない、今はどの事件も一段落してるけど…見当が付かないっておっしゃってるわ。そして、おれは腕に自信がないから、用心棒は、…あなたのことよ、ちゃんと確保した方がいいって。あたしに迷惑かけることになって、恐縮していますって」
 帳場でそう電話するおせつを見ながら、耕助とおちかは並んで立っていた。
「なんかイマイチ締まりのない話やな」
「こういうのは、緻密に計画を立てすぎると、狂ったときに困るんだ。本当に完全犯罪をやりたかったら、計画なんか立てない方がいい。話なんか、漠然としてて全然問題なし」
「…忙しい?」
おせつは、電話口に切ない声で訴えた。風間はそんなおせつに、嫌とも言えず、
「じゃあ、おれが、守っといてやるよ。守りきれるか、分からないが。夜だけだぞ。それでいいか?」
 おせつの顔が晴れた。それだけでおちかと耕助は、顔見合わせて笑った。
 おせつは、こんな時だというのに、風間の優しい言葉に有頂天になった。「守ってやる」という言葉に、災難も幸運のように感ぜられ、風間といられる時間が長くなればいいと心の隅でいつの間にか思っているおせつであった。おせつは受話器を手をかけたまま余韻に浸っていた。
「良かったですね、おかみさん」
 おちかが声をかけた。
 風間が来ると、おせつはいつになく駆け寄り、すがりついた。そんな二人を見ながら、おちかと耕助が笑って顔見交わすのを、風間は見逃さなかった。ちりちりと燃えるものが、胸にあった。
「じゃ、おれたちは行こうか」
 何気なく耕助が言うと、おちかは、ええ、と答え、二人してなぜか厨房へ行った。
 そんな二人を目で追ったのは、何も風間一人ではなかった。迎えに出た女中も、唖然として二人を見送った。
「何だ、あの二人…?」
 おせつを抱き寄せながら、二人の消えて行った方へ視線をくれ、風間はつぶやいた。
 厨房でおちかは耕助に茶を入れ、勧めると、自らも飲んだ。そして一息つくと、
「あんなおかみさん、初めてかもしらんなァ」
「もう、いいんじゃない?何もしなくても」
「そうやな。取りあえず、ほっとこか」
 二人がふーっと息を吐くと、お客が来たらしく、女中の一人が厨房へ入ってきた。そこに板さんがおらず、二人が居たのに一瞬身を反らし、
「あ、おちかさん、板さんたちは…?」
「ああ、今、奥で仕込んでるとこよ」
「橋本様が、お見えになったんですけど、…」
 耕助は仕事の邪魔、と立ち上がった。
「じゃ、ぼくはこれで」
「ありがとう」
 おちかはそう言って、二人分の湯飲みを洗い場に置いた。
 風間は奥座敷で着物に着替え、おせつの相手をしながらも、あの二人のことが頭を離れなかった。耕助がここへ来て何年にもなるのに、何で今急にあんなに親密になったんだろう。
「あのさ、…おちかさん、なんだけど…」
 風間はついでもらった酒を口に運びなから言いかけた。
 ――耕ちゃんと、どういう関係…?とか訊いたら、また金田一さんなのね、とふくれるか。
「ええ、おちかさん、どうかした?」
「いや、いい…よく頑張ってくれてるみたいだな」
「ええ。私の大事な相談相手よ。彼女がいるから、私、こうやって店を切り盛りできるんですわ」
「そういや…おちかさんも、いい年じゃないか。誰かいい人居ないのかな」
 おせつはちらと風間を見上げると、くすりと笑い、
「それって、遠回しに金田一さんのこと、訊いてるんじゃない?おかしな人ね、あなた」
「ばれたか…まあ、ね。もしそんな問題起こしたら、まずいよな。いい加減考えないといけないな」
「あらどうして?おちかさんなら、金田一さんにも安心よ。私以上に世話焼きですもの、きっと二人はうまが合うわよ。それに、お互い大人なんですから、そんな、問題だなんて、」
 ――うまが合うか、くそ。
 風間は面白くなかった。
「邪魔するよ」
 そう声がして、耕助が笑いかけながら入ってきた。
「お似合いですね、お二人さん」
「何言ってんだ。君、なんでそんなに呑気なんだ」
「えっ、いや、そんな…そんなことはないんだけど」
 耕助はテーブルの前に座ると、こほんと一つ咳をして、
「ちょっと思い当たる節があったんで、ご報告に来たまで」
「何だ。言ってみろ」
 妙に機嫌の悪い風間に身を逸らしつつ、耕助は、
「あれ…、えーと、…その、なんだ、多分、あれは…」
 妙にしどろもどろになった耕助に、風間は更にじろりと一瞥をくれると、
「ホントに分かってんのか?頼りないな」
「頼りない頼りないって、言うなよ。みんなして、なんだい」
「あらあたしは言ってないわよ」
「みんなって誰だ?」
「女中さん達?」
 風間とおせつは顔見合わせ、
「おちかさん?」
 ――ヤバイ!
耕助はそう思うと、
「いっ、いや、そ、そんなんじゃないんだ、ま、また来るよ、そんな大したことじゃなし、」
と慌てて立ち上がった。
「なーんだか変ねえ。金田一さん」
 おせつはそう言ってくすくす笑ったが、風間は耕助の出ていった襖を苦虫を噛みつぶしたような顔で見ていた。

 次の日の夜、ちょっと手が空いたときに、休憩室で、おちかは同僚に問いつめられていた。
「ね、おちかさん、おちかさんて金田一さんが好きなの?」
「…え、ー?何で?」
 おちかは素っ頓狂な声を上げた。全然思いもしなかった展開だからである。
「だって、あやしいって評判なのよ。最近。しょっ中二人でこそこそしてるし、おちかさんいやに目の色変えて世話焼くし」
 別の女中が口を挟んだ。
「あたしはネ、最初おちかさん旦那が好きなんだと思ったわ。あー空しいことしてるなって、」
「なんでよ、」
「だってこないだ金田一さんが前後不覚で寝込んだ時、おかみさんと旦那を障子にへばりついて観察してたじゃありませんか。あの二人が金田一さんのライバルになる訳ないし、こりゃそうだと思ったんだけど、ねー」
「ねー」
 女中が意味深に目を見交わす。
「まさかおちかさんほどしっかりした人が、金田一さんみたいな甲斐性なしを好きになるなんてねー」
「苦労するよねー」
 くすくすと女中は笑う。
「ちょっとやめてよ、そんな勝手なウワサ立てるの、迷惑よ」
「だから持ちきりで皆はっきりしたこと知りたいから、こうしてお訊きしてるんです。気になってしようがないんです」
「でももう皆ほとんど納得しちゃってるんです。おちかさんと金田一さん。案外お似合いですよ」
 女中はそこでまたけらけらと笑った。
「冗談はよしてちょうだい!個人的に相談事があっただけよ、ここんとこ。おかみさんのこともあったし。誰があんなの。あたし頼りがいがある男らしい男じゃなきゃイヤなんだから」
 おちかは休憩室から飛び出した。後輩にからかわれて、いたたまれなくなったからだ。
 意地を張って否定したが、頭から血が引くと、金田一さんに悪いことしたなとおちかは思った。そんなにしょうもない男じゃないと思ってるし、そんなに嫌いじゃないのに、悪口を言ってしまった。きっと自分の言葉でまた金田一さんの女中共の間での評価が下がるわ…持ち上げてやりたいくらいの評価しかないのに。
 でもあそこで持ち上げたりしてごらん。又やいのやいのと喜んで噂されるに決まってるわ。まったく近頃の若い子ってのは、人を見る目がなってやしないんだから。…
 おちかは改めて金田一耕助のことを男という視点で考え直して見た。
 ――そうね。一生世話焼いてもいいな。あたし、嫌いじゃない。うん、気が合うし、結構好きだな。でも、今一つセックスアピール感じないよね。
 そこまで考えて、くすりと笑っていると、後ろから響く声がした。
「ちょっと、おちかさん」
「はい、旦那――、」
 風間の声に呼び止められて、振り返ったおちかはそこに不機嫌な風間の顔を見つけて呆然と立ちすくんでしまった。
「さっきの話、ほんと?」
「さっきのって、あ、――」
「君、耕ちゃんのこと好きなのか?」
静かな分だけ凄みが増すといった感じで風間が詰問する。
「あ、ですからあれは女中達の勝手なうわさで、」
 しどろもどろで答えるおちか。どうしてこんなに怒っているのか、見当もつかないだけにパニックであった。
「噂はいい。君自身はどうなんだ。好きなのか、嫌いなのか」
「そらまあ、考えたことも無かったことですけど、」
「と、いうことは嫌いなんだな」
「いえ、そんな、嫌いだなんて、いい方ですし、あたしむしろ好きです。あ、でも変な意味での好きじゃなくて、そりゃ、金田一さんの方から言ってくれたら考えてもいいですけど、そうじゃなかったら変な噂立てられたくないですし、」
 おちかは自分の中を確かめるように小首をかしげ一言一言区切るようにしゃべった。風間はその答えを満足そうに聞いた。
「成る程。噂は迷惑なんだ。それじゃ耕ちゃんが何か言わなきゃ君からアプローチはしないんだな」
「え、ええ…」
「分かった、行っていい」
 急にご機嫌になった風間を横目に見ながらおちかは母屋へと戻っていった。
 ――一体何だってのかしら。旦那…まるでやきもちやくみたいに…あたしに…?そんなばかな。
 風間は何がああも気に入らなかったのだろう。
 挑むような風間の顔が忘れられず、おちかは身震いした。

 そのまま何事もなく二、三日が過ぎた。
 噂を警戒しておちかと耕助の密談もやりにくくなり、計画は暗礁に乗り上げたかに見えた。
 風間は毎日来るが、おちかと耕助のことが気になり、今一つ気分が優れない。
 その日風間はおせつが女中達と座敷に出た後、手ぬぐいをぶら下げて風呂へと行った。その途中、噂の二人が立ち話しているのを見てしまい、風間はとっさに柱の影に身を隠した。
「そろそろなんとかしないとだめなんじゃない?」
「そうだなァ。その男が捕まったとでも、言うかなあ」
「あんたほんまに適当で頼んないなァ。そんな程度のことやったら、私でも考えつくわ」
「でも君はその話に信憑性を持たせることはできないだろ。おれはそれが出来るんだぞ」
「はいはい、頼んます」
 軽い調子でしゃべりながら二人が歩いてくると、風間は柱の影から飛び出し、立ちふさがった。
「一体、何のつもりなんだ、君たちは」
 風間はぎりぎりと歯ぎしりしそうな表情で、眉をつり上げ睨み付けながら言った。耕助とおちかは気まずそうに目を見合わせた。風間は忙しいのに担がれたと思い真剣に怒っていた。更にそんな二人のツーカーぶりが彼の怒りに油を注ぐ。
 おひゃらかしに出来そうもない雰囲気であった。
 それでもまずは耕助は、
「な、何のこと?」
としらばっくれることを忘れなかった。
「しらを切るな。聞いてたんだぞ。その話に信憑性を持たせるたあ、なんだ。全部君たちの作り話なんだろう」
「そ、それは…聞き間違いだよ、」
「何がどう違うんだ。言ってみろ」
「えーっと、……」
 耕助はまた目を見上げて考え出した。しかしなかなかとっさにはよい言葉が出てこない。
「それが答えだよ、耕ちゃん。君ホントに頼りないね」
 風間はあざ笑うように言った。今度は耕助がかちんと来た。
「頼りないとは、どういうことだよ」
「おれの世話にならなきゃ、生活できない、仕事も一年に半分働けばいい方。しかも仕事に好き嫌い有り。そんなのプロじゃないよ。ただの趣味だ。君は全く、猫みたいな男だな」
「男に向かって猫たあなんだ。失礼なやつだな。何もおまえの世話なんかにならなくたって、生活できるんだぞ」
 風間は口元を歪め、意地悪く笑った。
「他にも、おれの他にも、素敵な旦那が一杯いるってんだろ。君は」
 その言葉にイヤな意味を含み取ると、耕助はさっと顔を赤くして風間を睨んだ。
 おちかは黙ってなりゆきを見ていたが、これは大変なことになると慌てて、
「旦那、金田一さんは悪くないんです、あたしが、旦那とおかみさんを、…」
とぽつぽつ吐き出すようにしゃべりだした。
 耕助は、はっと我に返ると、自分のことはひとまず置いておき、おっかぶせるように言い出した。
「おまえが、おせつさんに邪険すぎるんじゃないかと思って、おれが、一策練ったのさ」
「何を」
「二人をくっつけようってね。口ではさんざん言ったから聞かないのは分かってるから実力行使で…」
「そういう君はどうなんだ」
「何がよ」
「結婚するつもりはあるのか。どうなんだ。例えばおちかさんとか」
「なっ、」
 騒ぎを聞きつけ、女中や奉公人などが集まり始めていた。おちかは顔を真っ赤にして怒りだした。といっても照れているのであったが。
 耕助は、そんなおちかを横目に見て、変な噂を立てられて彼女の迷惑になっては…と、充分怪しい噂は立てられているのを知ってはいたので…
「そんなことはありえないよ。絶対に」
と、強く否定した。
 勿論、彼は、結局深く彼女のことを好きではなかったのである。が、千賀子は何故だか足元がすとんと落ちたような感覚にとらわれた。諦めと空しさとしかいいようのない空虚感が心を支配した。
 隣に立っている耕助が、急に遠く、よそよそしいものに感じられた。
「おれは…もう誰も好きになったりしないし、一生結婚なんてしないと思うんだ。だから彼女とは何でもないんだよ。ね、おちかさん」
 耕助がおちかを見た。おちかは何と答えてよいか分からず、
「え、ええ…」
と言葉を濁した。
 風間の目がきらりと光った。生彩を取り戻した。
「どうして誰も好きにならない?」
「おまえには関係ない」
「そうか。じゃあおれも一緒だ。一生誰も好きにならんし、結婚しないの。耕ちゃんが結婚したらあきらめてするけど」
 公衆の面前でいたずらそうな笑みを浮かべ訳の分からないことを言い出した風間に、耕助はうろたえた。
「ばっ、人を言い訳のダシにするな、」
「ダシなんかじゃない」
 風間は足を踏み出すと、後ずさって壁に寄りかかる耕助の腕を掴んだ。
「君が結婚しなきゃ、望みが捨てられなくて。君次第さ。君が悪いんだ…おれが落ち着かないのも。こんなおれを、どうにかしてくれる?」
 耕助はずいと迫ってくる風間に焦りを感じた。その表情はおかしいくらいに困り果 てていた。
「風間、悪い冗談はよせ、引っかけたのは悪かった、だから頼むからその手の冗談はやめてくれ」
 耕助は悲鳴を上げた。風間はふっと笑った。
「いいか、自分がそんななのに人に結婚は強制するな。大きなお世話だ。今日はこの辺で許してやるが、」
 風間は掴んでいた手を放した。
――今は、こんなもんでいいさ。でも、いつかは――、
 皆の好奇の視線を感じて耕助は恥ずかしさで冷や汗を流しながら解放された腕の感覚を取り戻すように手を振った。
「もう、やめてくれよなあ。これ以上変な噂が立ったら困る。ひどいやつだ、おまえは」
「おれはなに、構わんよ。何言われても。だから君も気にするな」
「するわ!」
 女中が好奇でざわめく。勿論彼女らはそれを本気で受け止めているわけではなかった。
 しかし、鉛を飲んだように黙って立っているおちかだけは、別だった。
 彼女は、胸になんとなく火傷したような、ちりちりした痛みを覚えていた。
 彼女は恋する者の直感で、感じ取ったのだ。風間が本気で耕助のことを見ていることに。熱い思いを抑えて、しかしひたすらに求めている、熱い瞳。
 肌がちりちりする程風間の情熱を感じ火傷したような痛みを受けたのは、“負けた”と思ったからだった。耕助に対する思い入れの強さで、その情熱の熱度と煮詰まり具合で、おちかは負けたことを瞬時に悟った。負けたから、傷を負うたのだ。風間はそれとなく自分に釘まで刺した。耕助が自分を振り向いてくれない限り、彼女は自分から言い出せなくなった。
 ――この人は、ここまで、夢中になっている。冗談で紛らしているけど、本当の心の叫びなんだわ…つらいわね…
 おせつも、風間も、耕助も、そして自分も。おちかはやるせない気分になった。
「全くもう、恐ろしい奴だよ、おまえは」
 耕助はあたふたと離れへ退散した。
「結婚なんて、しなくていいよ。おれが悲しむから。そしていつまでもここに居ておくれ。おれのために」
 風間が追い打ちをかけた。
「旦那ってこんな冗談いう人だったんだ。おっかしー。ね、おちかさん」
 女中が笑って話しかけた。
「ほんとね」
 おちかは強ばった声で、苦笑いを浮かべて答えた。



 それからおちかは知人の紹介である人と結婚した。それでもおちかは、洗濯物を畳んでいるときなどふっとした拍子に考えてしまうのであった。
 新聞やラジオで彼の名前を見聞きするたびにああ、やっぱり私はあの人を好きだったのだなと…旦那に負けて自ら引いてしまったが、なにも引く必要はなかったのじゃないかと。耕助もまんざら自分のことを嫌いじゃなかった。もう結婚するつもりはないと彼は断言していたが、それは自分から人を愛すことを止めただけで、もし、あそこでもう一押ししていたら彼は彼女の愛を受け入れたかもしれない。
 人の目や、他人のことに構って自分自身の心をおろそかにした結果、彼女はいつまでも彼のことを引きずる羽目に陥ってしまったのだった。繰り返すのは、もし、あのとき、…と。

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色々痛々しい部分もあるが好きなんだなーこの話。おちかさんと風間さんの火花の散らしあい(?)パートとか。

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