友遠来より…

「やあ。久しぶりだな。…といっても、そっちは覚えてないかも知れないが…」
 彼は初めての取引の相手で、初対面の挨拶のあと、互いに名刺を渡し、ソファに向かい合って座ると、そう言って笑いかけた。
 男は、本社を本格建築で建てるためにおれのオフィスに商談に来た、その会社の経理部長だった。突然そう言われて、その男の顔を見直すが、余り見覚えがない。それが顔に出たのか、相手は苦笑する。
「まぁ、覚えてないよなァ…君は誰知らぬ者ない有名人だったが、おれは平凡な一生徒だったしな。たった一年くらい級友だったからって、そりゃ覚えてないよな」
 その言葉から、彼がおれのどれかの学生時代の級友なのだと分かる。しかし、尋常小学校、旧制中学、旧制大学、どれのことなのか全く思い出せない。大学は行ってないも同然だし、クラスがどうとかいう代物ではないし、除外できる。すると、あとは…おれは思い出せる自信はなかったが、何か掴もうと名刺の名前を見て自分の記憶を探った。その、村上浩と言う男は屈託ない顔でにこにこと笑いかける。中肉中背の全く普通 のサラリーマンだ。
「すまん、おれはちょっと覚えがないんだが…」
 あきらめてそう言うと、彼は手を振りさらに笑った。
「謝る必要はないよ。ぼくは君に会えてとても嬉しいけど、君はおれのことを知らなくて全然不思議じゃない。ただ君みたいなみんなの憧れだった生徒に仕事とはいえこうやって会えるのは、嬉しくて仕方がないものだから、つい言ってしまったんだ」
 そのとき秘書がお茶を持ってきた。彼女がドアから引けると、
「すまんが、君はいつの…?」
「中学四年だよ。一緒だったのはその年だけだった」
「ああ、そうなのか…」
といいながらも、やっぱりおれは全く思い出せないのだった。覚えている中学時代の友人は、クラスが変わってもつるみ続けた悪友たちばかりで、実はおれは耕ちゃんの中学時代ですらおぼろげだ。というか覚えていないと言った方が早い。
「金田一君と仲がいいんだって?」
「君は彼も知っているの?」
 ちょっと意外目に言うと、
「今やちょっとした有名人じゃないか。君といい、卒業生の誇りだよ」
「誇り、ねえ…。まあ、外から見ると、そう思うのかもな」
 おれは松月でごろごろしている彼の姿を思い出し、歯切れ悪くそう言った。
「そうだよ。それに君は普通の生徒には全然興味が無かったかもしれないが、彼は彼でそれなりに有名人だったんだぜ」
 おれはこれまた意外で内心びっくりしたが、表面上は平静に、
「へえ…」
と答えていた。内心何かさざ波のようなものが立つのを覚えたが、何だか分からなかった。
「折角だし、今日、飲みにでも行かないか?こうやって同窓のやつと巡り会えるなんてなかなかないぜ。そうだ、耕ちゃんも一緒に、」
 彼はおれの言葉を聞いて、
「耕ちゃんって呼んでるのか。じゃお言葉に甘えていいかい?」
と人なつっこく笑う。それで約束が決まると、それからおれたちは事務的な打ち合わせに入っていった。


 おれの車で松月に二人が着いたのは、七時頃だった。
 おせつの出迎えを受けると、耕ちゃんを一番いい座敷に来るように言付け、彼を奥の座敷に誘った。
「凄いな」
 彼は忙しく立ち働く女中達や、建物の様子をきょろきょろし、しきりに感嘆しながら後を付いてくる。
「そんな大したもんじゃないよ…といいたいところだが、ここはおれの持ち物の中では、造りといい 格といい一番の自慢の場所なんだ。誉めてもらえてうれしいぜ」
「やっぱり風間君は、凄いよ」
 彼は今日何度も言った、その言葉を感に堪えない風にもう一度もらした。
 やがて座に着き、料理と酒が出てきて一杯やっていると、縁側の障子が開き、耕ちゃんがやってきた。今日も白っぽい絣を着流している。頭はいつものごとく、伸び放題の癖毛。
「やあ」
 おれが声をかけると、まずおれを見、それからおれの向かいに座っている村上を見た。
「あっ、」
 彼は覚えていたのか、村上を見るとそう言った。村上は耕ちゃんに向かって笑いかける。
「やあ、久しぶり」
「やあ、…たしか、中学生のときの、…なんてったっけ、ええと…」
「村上です。顔を覚えていてもらってただけでもうれしいよ」
「おれは全く覚えていなかったからな」
 耕ちゃんはそれを聞くと、おれに向かい、
「おまえらしい」
とあきれる。
「まあ、座れよ」
 おれは自分の横の座布団を、叩いた。彼は素直に従うと、おれの横に座った。猪口を取らせ、おれが注いでやる。
 そんなおれたちの様子を、村上は黙って見ていたが、
「ほんとに仲がいいんだなあ」
と面白そうにいう。
「君たちが仲良くなるなんて、中学時代からすると信じられないな」
「そういや、耕ちゃんがそれなりに有名だったってのは、なんでなんだ…?」
「君たち今そんなに仲がいいくせに、互いの過去は気にならないのかい?」
「別に…」
 今、仲がいいから。今までおれはそう思っていた。彼の昔になど、全く関心が持てなかったし、彼は目の前の村上と同じように、一方的に有名だったおれを知っていたのだろう、特別聞きただすことも無かった。
 しかしおれは、村上に触発されて、初めて彼の過去がひどく気になった。おれの知らない、それなりに有名だったという彼の過去が。
 そしてそれを知っているという、目の前の村上が、なんとなく面白くなかった。
「おれが有名?」
 耕ちゃんがうつむきながら、鼻で笑う。
「そうさ。…成績はいつも十番内、賢い生徒としてさ…」
 そしてそこで言葉を切ると、上目に耕ちゃんを見、
「てゆうかそれより、君もててたよね」
「あはっ」
 耕ちゃんが吹き出す。
「もててた?」
 おれが問い返す。
 耕ちゃんがもてていた?今の彼を見ても、おれの知っている彼の全てを思い出しても、晴天の霹靂だ。
「風間君みたいな、表だったモテ方じゃなかったけどさ、…もともと小さくて白くて結構かわいい顔をしてるって、密かに人気あったけど、有名になったのは、あの学芸会以来だよな」
 今度は耕ちゃんは盛大に笑った。村上も笑う。おれはなんだか面白くない。
「学芸会ってのは、なんだよ」
「風間はそんな行事なんかかったるくって、来てなかったんだろ。来なくていいんだよ、あんなもん」
「いいから、教えろよ。何があったんだ?」
 おれは横の耕ちゃんのシニカルな笑みを見ながら、尋ねる。
 しかしあいまいに笑うばかり。やれやれといった調子で、村上がなぜかカバンを引き寄せ、黒い小さな手帳を出すと、中から一枚の黄ばんだ写真を取り出した。
「これ」
 こんな写真が何の関係があるのか?というか何故そんな写真を持ち歩いているんだ?おれはちょっと訝しみ、それを村上から受け取った。
「なんだ、これ?」
 おれは少し、頓狂な声を出した。
 そこに写っているのは、かわいらしい少女の胸から上の写真。黒くて長い髪を下ろして、白い襟付きの長袖のワンピースを着て、こっちを向き、小首を傾げながら、口元を少しほころばせている。大きな、丸く黒い瞳が印象的だ。なんだか可憐な感じがする。
「まさか、これ耕ちゃん?」
 横目でそう言うと、彼はおれを見ず、
「イイヤ、妹」
という。
「ああ、歩(あゆむ)ちゃんか、」
 当時女学校に通っていた彼の年子の妹、歩ちゃんは潤むような瞳といつも何か語りかけるような唇が印象的な子で、おれ達の学校でかなりの人気があった。
 それなら昔の憧れのマドンナとして、村上が写真を持っていてもおかしくない。
 そう思おうとしていたときだった。
「何を言ってるんだ、今更。これは、君じゃないか」
 村上が言う。
「何!」
 おれは強く言うと、弾かれたように隣の男を見た。彼は相変わらず、冴えない顔色で勝手に一杯やっている。
「二年の時だったかな…凄くかわいくて、人気だったよな。写真も飛ぶように売れてさ…。おれも当然、買わせて貰ったよ」
 村上はにこにこと、耕ちゃんに向かって笑いかけている。耕ちゃんは彼を見ず、おれも見ず、薄く瞼を閉じて、うつむき加減のままだ。表情らしい表情はない。
「そうだったけかなあ。あんまり覚えてないよ…」
 ゆるく頭を掻きながら、抑揚のない声で耕ちゃんが答える。村上はさっきからずっと耕ちゃんを見たままだ。
「またまた。上級生から下級生まで、凄かったじゃないか。随分手紙貰っただろ、君。ごつそうな先輩とかに呼び出されたりさ、いつか何かに巻き込まれるんじゃないかと、ひやひや見守ってたんだぜ」
 村上のやつ、声もすっかり熱っぽく、本当に耕ちゃんしか見ていない。おれはあきれると同時になんだかむかついた。
「そりゃあ災難だったんだな。おれに一言言ってくれれば、蹴散らしてあげてたかもしれないぜ」
「でも、君にもちゃんとガードがいたよな」
 村上はやっと耕ちゃんから目を離し、下に落とすと、鯛の松皮焼きを一切れ口に放り込み、言った。
「もういいよ、」
 耕ちゃんはうざったそうに手を振る。
「へえ~…君は昔からパトロンを掴まえるのが上手かったのか?」
 無意識に出た意地悪い質問に、彼はさっと表情を変えた。が、すぐに元の飄々とした表情に戻る。彼が答えないので、酒にいい気分になってきたらしい村上が、上機嫌で答える。
「ガードっていったら悪いか。伊達君は君の親友だったんだもんなあ」
「へえ。伊達か。伊達なら覚えてるぜ」
 おれがそう言ったとき、耕ちゃんはテーブルの端に手をかけ、
「おれ、便所行ってくる、」
と立ち上がろうとした。おれはとっさに、彼の着物の裾を、座布団の上に抑えた。
「うわ、」
 耕ちゃんはもろに中腰でバランスを崩し、おれの懐に転がり込んできた。おれはしっかりと抱き留め、彼の顔をのぞき込んで、笑った。
「もう酔いが回ったのかよ。相変わらず、弱いな」
 彼はおれと目が合うと、頬に朱を掃き、顔を逸らし、
「酔ってんのは、お前じゃないのか」
という。かわいい、と思ってしまう。目が合ったときの、丸く見開いた目は、彼の面差しは確かにあの写真の少女のもののようであった。丸く甘く柔らかなものを含んだ顔。
 その間村上は、やはり顔を少し赤らめて、なんだか見てはいけないものを見た、という感じで微妙に目を逸らしていた。萎れたような感じで、さっきまでの勢いはない。おれはそれを見ると、妙に溜飲の下がる思いがした。おれは、自然と笑みこぼれていた。
 耕ちゃんはすぐにおれの腕の中から立ち上がり、障子を開けて出ていった。ピシャリと締まる音がいやに大きい。
 足音が遠ざかるまで、おれも村上も無言だった。なんとなく気分にゆとりの出てきたおれは、まだ所在なげにしている村上を見据えながら、徳利を差しだし、注いでやった。
 傍らの写真をつまみ、
「しかしびっくりしたな。これが耕ちゃんだなんて。おれももう少し真面目に、…おれとしては真面目なつもりだったが、学校へ行っておくべきだったな」
 ハイ、とおれは写真を返した。村上はぎこちなく受け取ると、さっさと元通り手帳に納め、カバンに入れた。なんとなく気まずい。
「君耕ちゃんのこと好きだったんだ?」
「いや、別に…」
「そうかい?でも未だに奥さんや子供の写真じゃなく、そうやって手帳に挟んでるなんて、相当好き、な気がするけど」
 村上は決まり悪そうに、ゆるく頭を振りながら、
「この写真は凄く好きなんだよ。写ってる人物より、多分ね。それにこのころの写真は高かったし、」
 言い訳だな、と思った。さっきの熱の入れよう、ありゃなんだ。しかしまあ、おれには関係のないことだ。おれはおくびにも出さず、
「確かに」
と答えた。
 だんだんおれは今日のことが村上の中では計画的だったんじゃないかと疑い出した。建設会社なんて今最も成長業種で道ばたで唾を吐けば建設会社に当たるというくらい沢山ある。勿論おれはその中では自分の会社が信用と実績のある優良企業だという自負があるが、一介の経理部長のくせに、わざわざおれの所に打ち合わせに出向いたのが怪しい。それに、おれと耕ちゃんが仲が良いということを知っていた。この男はおれに耕ちゃんに引き合わせてもらう目的でおれの会社を選び、担当を買って出たのではないか。なんせ写真も肌身離さず持ち歩いている位だからな。
 暫くまた重い沈黙を感じながら無言で飲んでいると、耕ちゃんが帰ってきた。彼が座ると、おれはまた注いでやる。彼は素直に受ける。
「さっきの話だけど、君、伊達と親友だったのか?」
 ちょっと信じられない思いで尋ねる。
 伊達という男は、小学校は別の学校だったが、その頃から名前を聞く男だった。別 に悪ではなかったが、背が高く痩せていたが骨っぽい男で、腕っ節の強い男として一目置かれる存在だった。顔も、格好も割と男前の部類だった。確かそう言えば、小学校からの友人と、いつもつるんでいるという話だったが…。
 そういえば、戦前は耕ちゃんの口から何度か伊達の話を聞いたような気もするが、戦後は全く聞かなかった。そもそも今更学生時代の話でもなかっただけだが。
 しかし耕ちゃんは伊達、と聞くとさっきといい何故か動揺が走る。勿論それは気を付けて見ていないと分からない程の一瞬だが。
 二人の間に何があるのだろう。とおれは勘ぐってしまった。やっぱりそれは、そういう関係のことなのか?
「あいつはなかなかいい男だったよな。君と違って」
 笑いかけて言うと、彼は無表情に、
「まあね」
と答える。
「金田一君は、確か伊達君と軍隊でも一緒だったんじゃなかったか?」
 村上が控えめに言う。本当にこの男は耕ちゃんに関して詳しいな。
「ああ。おれが初年兵のときにはやつはもう予備役の上等兵で、随分助けて貰ったぜ。あいつがいたから、イヤな軍隊生活もどうにかやってられたようなもんだな。よく知ってるね」
「おれも同じ部隊だったからね」
 普通に徴兵された者は郷里に帰って入隊検査を済ませ、地元の部隊に配属になるから、なんら不思議な話ではない。
「伊達は今、どうしてるんだ?」
 おれが問うと、耕ちゃんはびくっと一瞬身をそらませ、顔をしかめると、背けた。
 ――戦死、したのか…。
 その激しい反応を見て、直感的にそう思った。
「…イヤ、いいよ、言わなくて」
「おれも引き揚げてきてからこっち、全然田舎に帰ってないから誰がどうしたとかまったく聞かないな」
 村上が気付かぬ風でいう。彼はさっきから食の方に気を引かれがちで、耕ちゃんにあからさまな視線を投げない。だから耕ちゃんの変化にも気づかなかったのだろう。おれの威嚇が効いたのか。…いや、おれは別に威嚇しようとしたワケじゃないが。
「そういや折角こうやって会ってるのに、おれの話ばかりで村上君の話が全く出ないじゃないか。君は今、どうしてんの?」
 耕ちゃんに水を向けられると、村上は面を上げ、彼に優しく笑いかけている耕ちゃんと目があったらしく、少し頬を染める。
「や、おれなんかの話を聞いても面白くもなんともないよ。しがないサラリーマンだし…」
 三つ葉と糸こんのお浸しに箸を付けながら、彼は言う。
「そんなことないよ。仕事柄何でも知りたいし、おれはサラリーマンなんかしたことないから、面白いし、…」
「今やおれの囲われ者だからな」
「せめてヒモといってほしいね」
 村上はハハハと力無く笑う。それから耕ちゃんが尋ねて、村上が答えるという形が続いた。
 やがて十時になると、村上は帰ると言い出した。
 玄関まで二人で送っていくと、村上は
「今日は本当に楽しかったよ。君たちと会えて嬉しかった。素晴らしい店で、素晴らしい料理をごちそうさま」
と頭を下げた。いいやつなんだよな。おれや耕ちゃんをもの凄く買ってくれている。しかし耕ちゃんへの入れ込みようは、ただごととは思えなかったが。
「いやいや。折角同郷なんだし、またいつでも来てくれ。な、耕ちゃん?」
「ああ、是非」
 耕ちゃんが右手を差し出す。村上はうれしそうに、握手をした。
 車を呼んで、見送るとおれたちは元の座敷へ戻った。まだ酒と料理が残っていたからだ。
 耕ちゃんはおれがいないかのように、ぼんやりと箸を付け、手酌で酒を飲む。相当疲れたんだろう。おれはそんな彼を横目で見ながら、やっぱり黙々と箸を動かした。
「…伊達の話、聞きたいか?」
 どうだろう。答えに窮して黙っていると、彼は問わず語りを始めた。
「あいつは、まあいい男だったけど、要領の悪い男だったよ。運がないとでも、いうのかな…」
 くすりと苦い笑いを浮かべる。
「軍隊だって、あいつ目が悪いのに視力検査で適当なこと言ってたら合格しちまって、本当だったら失格だったはずなのに。それで十二年には徴兵された。まぁそのおかげでおれが召集されたとき、随分融通してもらえたんだからおれに関しては運が良かったな。隣の班で色々こっそり助けてもらってたし。それで大陸へ渡って、それなりにあいつも昇進して、やつがおれたちの分隊の伍長をしているときが軍隊時代の中では一番楽しかったかな。後に比べりゃ、あまり戦闘も無かったし。行軍するのが仕事みたいな感じだったしな。」
 そこで一旦言葉を切ると、何かを振り払うように頭を振る。
「耕ちゃん、もういい、彼は、…その、死んだんだろう…?」
「…ッ…」
 彼は小さく呻くと、
「あいつ…あいつはバカだ。おれなんかをかばって…放っておいて逃げればいいのに、おれの目の前で、……あいつは内地に帰ったら、歩と結婚の約束をしていたのに!おれなんかほっておいてどうして歩のところへ行かなかったんだ!おれには何もなかったのに、」
「耕ちゃん、」
 彼は机につっぷする。おれは彼の肩を抱き、揺すぶった。
「そりゃきっと、君を見捨てて結婚しても、彼は幸せにはなれなかったよ。今君が苦しんでるように、きっと!彼は君を恨んじゃいない。きっと好きな人の兄さんの命を救えて、それなりに幸せだったさ、」
「でも、でも…!歩はどうなる?おれは歩に会えなかったよ。未だに会ってない。せめて伊達のことを忘れて、誰かと幸せになってくれたら…」
 彼は顔を上げ、おれを見た。
「風間、…あいつを、貰ってやってくれないか?」
「え…?でも…、」
 すがるようにおれを見つめる黒い瞳。おれは魂が吸い寄せられるような気がした。この瞳によく似た、黒目がちの少女を思い出す。
「村上なんかの方が、いいんじゃないか?ああやって未だに君の写真を持ち歩いている、…」
「悪いけど、彼じゃだめだ。彼では伊達の代わりにはなれない。いい男でも、君と伊達とじゃ随分性質が違うが、歩は君だったら気に入ると思う」
「耕ちゃん、」
「ごめん。代わりなんて…。でも、あいつが幸せになってくれなきゃ…」
「耕ちゃん…」
 おれは彼の肩を引き寄せ、強く抱き締めた。どっか行ってしまいそうな魂を引き寄せるように。相手が女なら、ここで口を塞いで、言いたくないことを飲み込ませ、落ち着かせることができるのに。
 彼はおれの腕の中で小刻みに震えていたが、やがてぐったりと身を預け、大人しくなった。
「大丈夫か?」
「ああ…取り乱して、すまん」
 先程までの興奮状態は脱したらしく、比較的落ち着いた声がした。
「悪かったな。しゃべらせて」
「いや、いいんだ…案外聞いてもらって、おれはすっきりしたかもしれない。風間には迷惑かけたな」
 おれの肩を一つ叩くと、身を離そうとする。おれはそれを許さず、抱き寄せた。
「いいや…おれこそ、こうやって君を支えていられることが、嬉しいから」
 表情は俯いていて分からないが、彼の身体が、熱くなった。それを感じて、おれも急に照れて熱くなる。おれは少しばかり、恥ずかしいことを口走らなかったか?
 今日は感情の起伏が激しかった。その色々が一瞬に駆け巡る。おれをダシにした面白くない男、村上の耕ちゃんを見る輝く瞳。耕ちゃんをひっかけて二人の反応を見て笑い出したいくらい高揚した気持ち。いつになく取り乱した耕ちゃんの切ない姿。そしてこうやって抱いている安堵感。…写真の少女の、語りかける瞳。
「耕ちゃん、」
 おれは顔が見たくなり、首に回した腕であごを引き上向かせた。彼は目を外す。白くまろやかな顔に乱れてかかるくせっ毛。少し荒い息を吐く、唇。いてもたってもいられない胸騒ぎ。
 ――キス、したい。
 不意に湧いたその考えをやり過ごすために、彼の肩を強く掴んだ。
「風間、…もう、大丈夫だから、その…」
「………」
 おれは静かに、腕を離した。
 本当は、今夜中だって、君を抱き締め支えていたい。
 そうらしい。どうやら、おれは案外、君のことが、…好きらしい。
 だけど、おれのそれはあの村上よりはまだましだろう?


 結局おれは村上とは二度と会わなかった。初回以降、打ち合わせには他の者がやってきた。多分彼はあの様子だと、おれをやはり怖い男だと思ったんだろう。
 でもおれは、彼に感謝している。知らなかった耕ちゃんのことを教えてもらい、かわいい写 真を見せて貰い、気付かなかったおれの心を引きずり出してくれた。最後は余り感謝すべき事柄でもない気がするが、まあいい。

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女装と当て馬しか覚えてなかったけど、妹出してたのかーヤバイ。あと伊達さんも…痛いよおw でも抜いたら弱い話になりそう。でも戦前は兄弟5人以上なんてザラですからね。うちの両親もどっちも7人兄弟よ

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