S23

 やっと過ごしやすくなってまいりまして、朝夕などはめっきり涼しくなりました。
 元気でお過ごしでしょうか。さて、最初からこのような話題で恐縮ですが、ウチの離れに間借りしておられる金田一さん、いつも書いておりますからご存知でございますわね、その金田一さんの様子が、最近おかしいのでございます。いえ、気がふれられたというのではございません。そりゃ、勿論あのような仕事を生業となさっている方ですもの、しごく頭を使われ寝食を忘れる程思いにふけることなどさう珍しいことではないのですが、今回はちょっと違うのでございます。第一、期間が長すぎるのです。どうもソウウツなのでございます。つい一ヶ月程前までは放心したようにボーッとなさっている事が多かったのですけれども、だんだん塞ぎ込むことが多くなり、むっつりと考え込まれるようになって、いらいらしているのが手に取るように解ります。顔もやつれて、目がとがり、眠れないことがあるのでしょう、目の下にクマがある朝もございます。おまけにここ数日ではすっかりギラギラした感じになって、人が違ってしまったかのようです。これがあの方の仕事に関しているということは、毎日のように飛び回っていることでも解るのでございますが、一体如何なる難問に突き当たって、かように長い患いを被っていられるのでしょう。本当に単なる事件の難しさ故なのでしょうか。このままでは倒れられるのじゃないかと心配でなりません。通り一遍のことは言ってみるのですけれど、私ごときに悩みを打ち明ける方ではなし、どうしたものかと途方に暮れております。何か良い智恵がございましたらお教え下さい。
(おせつの手紙より)

 おせつから電話があったのは、十月も半ばを過ぎたある日だった。
「最近ちっともこちらへお渡りになられないのね」
と、少し責めるような口調で、せっかちに言った。
「いや、ここん所忙しくて、」
「まあ、何がお忙しいのかしら。お仕事?それとも、女?」
「おまえらしくないな。勘ぐるなよ」
 おせつは弾けるように笑った。
「ほっほっ、勘ぐるなんてムダなことは致しませんわよ。今更。ちょっと言ってみただけですわ」
 口先だけでない、心からの言葉。こういうところが、おせつの良さだ。
「いえね、金田一さんの様子が、危ない感じで、私じゃとても手に負えなくってあなたに助け舟を求めたところなのよ」
「様子がおかしい?」
「ええ、最初はいつもの事だからとたかをくくって思索の邪魔をしないようにそっとしておいたんだけど、ちょっとほっておけなくなってきてねえ。あなた、近い内に一度いらしてよ」
「ああ、そりゃ気になるな。夜はかったり居るかい?」
「ええ。遅くとも十一時迄には…。なんてかこつけて、本とはあたしが寂しかったりするのよね」
「分かった分かった。そう暗に責めるなよ。二、三日内に様子を見に行こう」
 おれはこうして電話を切ったのだが、おれもまだたかを括っていたのだ。
 松月へ行ったのは次の日の夜だった。
 離れの障子を開けた瞬間、おれは目を見張った。
 彼はちゃぶ台にひじをついて反射的にこちらを見たが、確かにその表情の中には険しさが見え隠れしていた。彼は無理矢理に凄い微笑を作ると、
「久しぶりだな。何かまた相談事かい?」
と言ったが、おれが何も答えず凝視しているのに気付くと、彼はふいっと顔を背けた。
 おれは何と言うか切り出しかねていた。おれもちゃぶ台の端にぺたんと座って改めて事の重さを認識していた。長い付き合いだがこんな彼を見るのは初めてだった。しかしこの無愛想な中におれはベロリと一皮むけた彼の本当の姿を垣間見たような気がした。誰もが金田一さんらしくもないと今目の前に居る彼を思うだろうが、おれにはこれが彼の真実の一部分、裸の一部と感じられた。
 彼はいつも上手に着物を着ている。くたびれた着物を。
「風間は何か用があって来たんじゃないの」
 おれの方を見ずに彼が言う。その時障子が開いておせつがお茶と酒と肴を持ってきた。おせつが引き下がると、おれは早速景気付けに一杯引っかけた。
「耕ちゃん、君、どっか悪いんじゃないのかい」
 おれはそう切り出した。
「別に。何ともない」
 彼は抑揚のない声で答えた。
「でも随分やつれてるぜ。実は、おせつたちがひどく心配しているんだ」
「そんなことだろうと思った。心配して貰うほどのことじゃない」
「でも、心配するなという方が無理だぜ。一人で悩んでたってらちぁあかないぜ。一体どうしたんだ」
 彼はちょこを取ると一口口を付けた。
 「…本当に、何でもない。おれの仕事に関することなんだ」
 物憂げに髪を掻き上げる。憔悴した顔に、いつ切ったのか分からないような、いつになく伸びて乱れたくせ毛。
「それにしたって、いいから言ってみろよ」
「御免だね」
 彼は突き放すように言った。おれはむっとした。
「そう言う言い方はないんじゃないか、おれは心配して――」
「今は、結構。はっきり言って会いたくないんだ。もう、帰って欲しい」
「耕ちゃん、」
 おれは肩を掴んでこっちを向かせようとした。彼はずっとそっぽを向いていた。が、耕ちゃんは素早くおれの手をパシンと払う。おれが更にむっとして胸ぐらを掴もうとすると、彼はさっと立ち上がって二、三歩後ずさった。
「悪いけど、今、おまえを見ていたくないんだ。帰ってくれ」
「理由を言え、そしたら帰るさ」
「……」
「おれが、気に入らないのか」
「関係ない。プライベートだ」
「話にならんじゃないか」
 テーブルの向こうの畳の上に幾多の書類が雑然と積み重なっていた。不意におれはそれに手を伸ばした。
「あっ、」
 彼はおれの手を取って触らせまいとした。書類を手ではたいて、身体のバランスを崩すと、そのまま勢い余っておれの方に転がってきた。
「危ねえ!」
 耕ちゃんを抱き取るような形で、そのまま倒れ込むと、おれは覆い被さっていた。彼もうつぶせていて、髪に隠れた横顔で表情は読めなかった。彼が二、三度逃れようと、網にかかった魚のように身を捩らせた。
 しかしおれは、今日始めてやっと彼を捕まえたような気がしていたので、逃すまいと彼の後ろから右肩に回した左手に更に力を込めた。抱き心地は悪くなかった。ひどくおれの腕になじむ身体だった。
「は、…放せよ…」
 彼が固く細い声で言った。
 放せない。放したら、今日何のために来たのか分からない。そう思うと、
「だめだ。理由を…言ってくれないと…」
とおれは口走っていた。くせのように腹に回していた右手が、半ば無感覚な状態で、彼のその辺りを徘徊した。指先が下腹部のものにかすかに触れると、彼ははっと息を詰めて、身体を固くした。
 おれは体中がひやっと氷のように冷たくなったかと思うと、すぐに血がたぎって全身を駆け巡り噴き出すかと思うほど熱くなった。熱くなった手のひらで、更に強く抱きしめる。
 不意におれは彼を覆うている紬の単衣をはぎ取り、かすかに息づいているその唇に己の唇を合わせたくなった。血は熱く逆流しているかと思われる程。
 もう一度そこに触れてみたかった。おれも今熱くしているそこに。しかし怒濤のような思いを抑えて、おれは心落ち着くまでそのままでいた。
 どのくらいたったか、どうにか落ち着くと、おれは彼を放して起き直った。
 彼の乱れた着物の合わせ目から白い足が付け根までのぞけていた。
「バカ!」
 彼は少し力を抜いて横になっていたが、起き直ってそう言った。乱れた襟元と裾を直すのももどかしく、
「色きちがいか、おまえは!」
と言った。
「すまん、抱き心地が良かったんで、つい我を忘れて…、」
「おまえみたいな奴は皆そうさ。すぐ没頭できてお目出度いねえ。相手構わず、なりふり構わず!」
「悪い…忘れてくれ。おれは帰るよ。ごめん」
 おれは立ち上がった。彼を見ず、障子に手をかけた。
「八つ当たりだよ。おれの失言も、忘れてくれ」
 彼の言葉がおれを追いかけた。
 廊下へ出、障子を閉めるとおれはフーッと一つ息を吐いた。一旦落ち着いた心が、再びざわつき始めた。火照りを交えて。
 一体あれはなんだったんだろう。
 こんなことがあっていいのか。仮にも彼はおれの親友で、男だ。
 それに、こんなにも欲情を覚えるなんて、おれはどうかしているんじゃないか。おれは決して男色家のはずはない。
 なのに、いまだに彼が忘れられないどころか、益々それが強くなっている。
 おれはこの感情がひどく汚らしいものに思えた。
 おせつの部屋に行くと、すぐにおれはおせつを抱きしめた。殆ど何も言わず。
「一体どうしたというのよ、ケンカでもしたの?」
 終わった後、おせつが着物を繕いながら訊ねた。
「まあ、そういうところだ」
 タバコをくゆらし、おれは答えた。
 おせつの報告では、次の日彼は旅行に出たという。

 何日か経つと、おれの心も落ち着いた。
 最初は思い乱れて心が割れたようだった。自分で自分がこんなにも信用ならんやつとは思わなかった。
 当たり前だろう。変態だ。はなはだ気色悪い。彼は男だぞ。一体どうやってヤルというのだろう。深く考えると、吐きそうになった。
 ただ、余りにも収まりがよく抱き心地が良かったのだ。そもそもあの着物というやつが、くせものだ。
 旅行に出かけた彼は、年末までに帰ってきた。
 北海道へ行っていたという彼の土産の店開きをしていた夕食時、おれはおせつに聞かれたらマズイと思って、濡れ縁へ彼をひっぱり出した。
「こないだのことだけど、本気で忘れてくれ。後で思い出して吐きそうになった」
「おれだって吐きそうだよ。おまえとなんて、怖気が立つ。正直言っておまえが怖くなったよ」
「悪い悪い、どうかしてたよ。でもあれは君がおれを怒らせたから悪いんだ」
「するとおまえは頭に来た相手に片っ端から欲情を覚えるわけだ。こりゃ怒らせると怖いぞ」
彼はこらえきれない笑みを浮かべ、言った。
「ぬかせ!とにかくもうあんな間違いは起こさないから」
「そうしてくれよ。立ち直るのに時間がかかったんだから…おれ、失恋したんだ」
「へえっ、耕ちゃんが?」
 おれは頓狂な声を出した。
「うるさい。おれだって仙人じゃないんだぞ」
 昔おれが言ったことを覚えているらしい。
「その、女の好きになったのが、おまえみたいなタイプだったんだ」
「ふうん、どんな女だい」
 彼は庭を見、
「あん時ゃもう死んでた」
 そして目を落としたまま、戻ろう、と彼が言った。
 傷はまだ、完全には癒えていないようであった。

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原作で推理そっちのけで金田一さんの描写が楽しすぎた「女怪」は隠れた傑作ですわ。

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